国守神社の名称は、おそらく国守町という地名からだと思われます。しかし、今現在では、寝屋川市に“国守町”という地名はない。十数年前までの地図では、寝屋川市東部に大字寝屋、大字高宮、大字打上、国守町と地名が並び、現在の地名とは異なっていたようです。この地域で住居表示が実施されたのは第二京阪道路が開通した2010年の頃とみられ、大字寝屋の場合は、寝屋1〜2丁目、寝屋南1〜2丁目、寝屋新町、寝屋北町、寝屋川公園に変わる。
そして国守町は高倉1〜2丁目、明和1〜2丁目に変更された為、“国守町”という地名は、今は現存しない地名となっている。また、国守町の地名がそのまま住居表示に使用されなかった理由は不明との事です。
しかし、周辺のマンション名や商店などで“国守”の名を冠したものが見受けれる様で、名残が残っているようです。
また、歴史関係においては、國守神社から東へ学研都市線の向こう側には国守遺跡があるとの事です。
国守遺跡とは
寝屋川市のホームページによると
国守遺跡は、東部の海抜30メートルの丘陵にあり、現JR学研都市線の複線化工事に伴い、発掘調査が行なわれることになり 新しく発見された遺跡です。昭和51年(1976年)のこの調査は寝屋川市初の発掘調査。
調査は線路敷の拡幅される幅3メートルのせまい部分で行なわれ、中世(13~15世紀)の柱穴・井戸 ・石組遺構等が見つかりましたが、それらの性格や広がりはよくわかりませんでした。出土した遺物には、古墳時代後期(6世紀)・飛鳥・白鳳時代(7世紀)・中世のものがあります。この中で6、7世紀の遺物の出土については、付近に所在した多数の古墳に関連する集落の存在が推測される。また中世の集落は近くを通る東高野街道に関連したものと考えられる。
国守遺跡は遺跡の広がりなど不明な点が多く、今後の調査による解明が待たれます
ご興味のある方は
国守遺跡調査概要報告
由緒
大阪府神社庁ホームページより
もと八幡宮と称したが明治維新後今の社名に改め、同五年村社に列せられる。境内は千八十坪、本殿、拝殿、末社に若宮神社、貴布袮神社、厳島神社がある。
周辺マップと経路
入口
【鳥居】
【手水舎】
国守神社 社殿
【狛犬 阿形】
【狛犬 吽形】
【拝殿】
【拝殿内】
境内の様子
【社務所】
末社 厳島神社
若宮神社と貴布袮神社は見当たりませんでした。
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