佐和良義神社は大阪府茨木市美沢町にある神社で島下郡の式内社です。通称「大宮さん」と呼ばれています。
古来から元茨木川堤防際に鎮座し、延喜式内社ですが、創建の年月は不明です。
現在は加具土大神を祀られていますが、社前の明和5年(1768年)の石燈籠に天児屋根尊とあることので天児屋根尊を祀っていた時期もあったそうです。総代であった高橋好隆は燈籠を奉納した安井延清が高橋家より安井道頓一族家に入婿した人で、この地が中世近衞家の荘園で、先祖が藤原氏に繋がるという自覚から刻んだと推察されるとの事です。
境内社の八幡宮は沢良宜城の鎮守社。
明治5年(1872年)村社。
明治40年(1907年)8月の豪雨で川が決壊し社殿が流失。
大正6年(1917年)に本殿、拝殿、器具庫を再建。
大正5年5月28日、神饌幣帛料供進社に指定される。
周辺マップと路線経路
佐和良義神社 入口
【社号標】
【鳥居】
鳥居から社殿までは200mほど北に歩きます。
佐和良義神社が南北に長くなっていて、そこが沢良宜城の乗馬訓練のための馬場があったと言われています。 また、古来は境内・参道の東方に沿って元茨木川堤防際にありました。旧茨木川は昭和10年(1935年)の水害により付け替えられ、上流側で安威川に合流するようになりました。
【参道】
樹木に囲まれた長い参道が続きます。
八幡神社
御祭神 応神天皇
沢良宜城の鎮守社で、石清水八幡宮から勧請されました。
【八幡神社の鳥居】
鳥居からの風景。
【八幡宮社殿】
【狛犬 阿形】
【狛犬 吽形】
【八幡宮の石碑】
社殿の脇に建つ石碑には「ヤワタの八幡宮はこの方角に当ります」とあります。
【拝殿】
【手水舎】
境内の中央に置かれている。
佐和良義神社 社殿
【狛犬 阿形】
【狛犬 吽形】
【社殿】
佐和良義神社は、火の神である加具土神を祀る神社です。サワラは銅を、ギは村を意味しています。
カグは銅の古語です。神社と村の名前が一致していて、この一帯に鋳造工房があったとのことです。 それは神社の北300メートルにある東奈良遺跡から銅鐸の鋳型が出土していることでも裏付けられます。
【本殿】
本殿の裏に石碑。
北側の入口
【社号標】
【佐和良義神社 案内板】
当社は延喜式神名帳に記載された式内社で沢良宜郷の通称 「大宮さん」
昭和六十一年十月
であります。
万博を機に阪急南茨木駅を開設ビル建築や小川改修が行われた昭和四十八年春から四十九年秋にかけて、 弥生時代の銅鐸鋳型を始め住居跡や土器土拡墓など多数発見されたところホヤホヤの新住居表示をそのままに東奈良遺跡と命名されたのです。
カグツチはカグの神、 カグは銅の古語、 サワラも銅器を指すので地名と神名が一致し (ギはムラ) この鋳造工房跡は約二千年前にこの地にあった「さわらぎ遺跡」と確認され出土品はすぐ近くの文化財資料館に展示されています。
境内社の八幡宮は沢良宜城の鎮守社で六百年前、 足利初期の城館。早く退転して農地となり今は美沢高層住宅地となっています。
神は人の敬によって威を増し人は神のめぐみによって運を添う。
北側入口から境内の様子。
沢良宜城跡(さわぎじょうあと)
佐和良義神社の南側入口の西方に美沢公園があります。その一角に石碑と説明板が建っています。
【公園の様子】
【沢良宜城跡 解説板】
【書籍】ふるさと茨木連帯沢良宜城跡
案内板より
室町幕府三代将軍足利義満(一三六八〜九四)は子の義持に将軍職を譲って六年目にあたる応永六年(一三九九)、堺港へ進出してきた周防国の大内義弘を攻めました。 このとき、沢良宜城主、藤井三位は義持将軍から「御馬廻り免状」をもらい家老職や郎党を従えて勇躍出陣しました。
「御馬廻り衆」とは、いわば室町幕府直参の旗本で「応永記」には、その数二千騎と記されています。 当時の沢良宜勢は約三千坪の城を中心に、勝尾寺衆徒の中でも相当な力をもっていたようです。この城は、応仁の乱(一四六七~七七)の頃か、もう少し前の一四〇〇年代の早い時期になくなったと考えられています。城跡に隣接したこの佐和良義神社 (式内社)の境内は、南北に長くなっており、城の乗馬訓練のための馬場があったと言われています。
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