御祭神
高龗神を主祭神とし、素盞嗚尊・大山咋神・大国主神を配祀する。素盞嗚尊は須加神社の、大山咋神・大国主神は日吉神社の祭神で、明治時代に合祀されたもの。
周辺マップと路線経路
入口
【大きな木】
【社号標】
すぐ横には京阪電車が走る。
階段を昇る。
向こうの方に淀川が見える。
御茶屋御殿跡
昇りきると御茶屋御殿跡展望広場にでる。
【御茶屋御殿跡案内板】
京、大坂間を結ぶ交通の大動脈、淀川と京街道を見下ろすこの地に豊臣秀吉が御茶屋御殿を建てたのは文禄4年(1595)のことです。三矢村に残る記録から秀吉が「御茶殿」を当時に建てたことが確認できます。伝承では、秀吉の家臣である枚方城主本多内膳正政康の娘「乙御前」をここに住まわせたとも言われています。
御茶屋御殿跡案内板より
京都伏見と大坂に拠点を置いた秀吉は、この間をしばしば行き来していました。中間にあたる、ここ枚方の地にも立ち寄ったことでしょう。文禄5年(1596)の淀川堤防修築に際しては、対岸の大塚から枚方の工事の様子を上機嫌で眺めたとの話しも残っています。
江戸時代に入ると、御茶屋御殿は幕府公用の施設となりました。元和9年(1623)には2代将軍徳川秀忠が、寛永3年(1626)には3代将軍家光が逗留したと記録に残されています。家光来訪の際には、秀吉が建てた「大茶殿」の脇に桁行5間、梁行3間の御殿が新築されました。
その後は利用されることもなく、「大茶殿」は承応3年(1654)老朽化により解体され、新築御殿がその用材の収納庫にあてられていました。しかし、延宝7年(1679)7月1日に起こった枚方宿の火事によって新築御殿もろとも全焼し、イゴール再建されることはありませんでした。
展望広場からの景色。
ここからも京阪電車が見える。
昭和初期、明治30年代の景色。
【万年寺山遺跡1号石棺】
万年寺山遺跡1号石棺(まんねんじやまいせき いちごうせっかん)
枚方市
この場所は枚方丘陵の最北端に位置し、淀かを眼下に望むことができる非常に眺望のよいところで、標高は約31mです。平成17年10月14日、展望広場の工事中に、南面するここで石棺が発見されました。
この石棺は、組合式箱形石棺(くみあわせしきはこがたせっかん)と呼ばれるもので、盛り土を切り込んで構築され、内寸が長さ180cm、幅38~40cm、高さは20~30cmあり、石棺内に推定身長170cmと思われる一人分の男性人骨が良好な状態で残っており、頭を西に向けて葬られていました。
石棺の床面は、チャートという川原石(かわらいし)を使って石棺内一面に礫(れき)が敷きつめられた特異なもので、周囲は北・南ともに長方形に加工された板石を3枚づつ使用し、東・西に小口石(こぐちいし)をそれぞれ1枚づつ配して四方を囲い、その上に厚手の板石状の蓋石(ふたいし)を何枚も置いていました。
これらの石材のほとんどが、四国・徳島の吉野川下流域産のものではないかと推定されています。
また、出土遺物が一切ないため、時期を決定することは難しいのですが、礫床(れきしょう)の採用や石棺の構築法などから、古墳時代前期(4世紀)のものではないかと推定されます。
万年寺山意賀美梅林園
【閑院宮載仁親王演習御観戦所の石碑】
【万年寺山の緑陰案内板】
万年寺山の緑陰
枚方市
淀川沿いに細長くのびる旧枚方宿の町並みを眼下に見下ろし、こんもりと緑に包まれて突き出た丘が万年寺山です。摂津・丹波の山々や、豊かな淀川を一望に見渡せる風光明媚なこの丘は、京阪二都のちょうど中間にあり、数々の歴史の舞台となってきました。この丘の上の意賀美神社境内には、古墳時代前期に築かれた万年寺山古墳があり、青銅鏡八面が出土しました。
言い伝えによると、推古天皇(592~628)の時代、高麗(高句麗)の僧恵灌が、この地の風景の勝れているのを愛で、眺めが唐の林岸江に似ているとして、草庵を営んだのが万年寺のはじまりです。一千年余の法灯を伝え、夕暮れを告げる晩鐘は人々に親しまれてきましたが、明治の神仏分離令により、この地に意賀美神社が遷ってきました。いまも参道の石段横に、「長松山萬年寺」と刻んだ石柱や十三重の石塔が苔むしており、往時を偲ばせてくれます。
近年、境内に植えられた多くの紅白梅が大きくなり、観梅の名所になっています。梅林を北に向かうと豊臣秀吉の御茶屋御殿跡があり、展望広場として整備され、眺望の素晴らしいところです。
鳥居と参道
【一ノ鳥居】
【社号標】
【参道】
【二ノ鳥居】
【十三重の石塔と長松山萬年寺の石碑】
二ノ鳥居から境内までの参道。
途中にお地蔵。
境内の入口に注連縄柱。
注連縄から参道の方へ撮影。写真ではわかりにくいが、景色が美しい。
末社 琴平神社
【鳥居】
【狛犬 阿形】
【狛犬 吽形】
【拝殿】
稲荷神社
【鳥居】
【狛犬 阿形】
【狛犬 吽形】
【お社】
境内の様子
【手水舎】
【万年寺山古墳と意賀美神社】
万年寺山古墳と意賀美神社
枚方市教育委員会
旧来、当地には須賀神社(三矢村・枚方村両村の鎮守社)が鎮座し、今の梅林辺りに万年寺がありました。万年寺は明治初期の神仏分離で廃寺となりましたが、境内に残る南北朝~室町期の石造九重塔が往時の姿を伝えています。
明治二五年(一八九二)、枚方尋常小学校が万年寺跡に移転し、同三七年、同校運動場拡張工事中に発見されたのが万年寺山古墳です。墳形等は不明ですが、主体部は粘土槨と推定量されます。三角縁神獣鏡等の青銅鏡が八面以上出土しており、淀川流域の水上交通を掌握した豪族が葬られた四世紀前半頃の古墳と考えられます。平成一七年には万年寺山展望広場から同時期の箱式石棺墓が見つかり、この一帯が一族の墓域であった可能性があります。
明治四二年、伊加賀宮山にあった意賀美神社(伊加賀村・泥町村両村の鎮守社)は、須賀神社と岡村の日吉神社(岡村・岡新町村両村の鎮守社)と合祀し、当地に遷座しました。麻田藩(豊中市)の算術家岩田清庸が、文久元年(一八六一)に和算の問と答を描いて奉納した算額(市指定文化財)が伝わります。
【第4師団忠魂之碑】
本殿
【御神木 連理の榊】
本殿のすぐ横に御神木
【狛犬 阿形】
【狛犬 吽形】
【本殿】
【本殿の横に建つ神楽殿】
彫刻が素晴らしい。
皇祖神遥拝所と明治神宮遥拝所
【皇祖神遥拝所】
近くにある石碑。
こちらも近くにある。
【明治神宮遥拝所】
遥拝所は、遠く離れた場所から拝むために設けられた場所。
横にある石碑。
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