観音寺(かんのんじ)は、普賢寺川が流れる京都府京田辺市にある真言宗智山派の寺院。
山号は息長山。本尊は十一面観音。別名は大御堂、大御堂観音寺などと呼ばれる。
現在の山号は息長山とされ、天武天皇の勅願により法相宗の僧・義淵僧正が創建しましたが、これは偽書とされる「椿井文書」を由来としている為、歴史的、伝承としても正しくない。
由緒が江戸時代に椿井政隆が作成した偽書である椿井文書の影響で歪められたものとなっており、元来の伝承は不明となっています。
大御堂(本堂は1953年(昭和28年)3月に再建。境内には鎮守社として地祇神社がある。
周辺マップと路線経路
観音寺 入口
生駒井手線から普賢寺川を渡り、田んぼ道へ。
丁字路を北へ1、2分歩く。
【観音寺の鐘楼】
【家康公伊賀越えの道 案内板】
普賢寺 家康公伊賀越えの道
家康公伊賀越えの道 案内板より
天正10年(1582)の本能寺の変により織田信長が明智光秀に討たれた時、徳川家康は僅かな近臣とともに泉州堺に滞在していました。
本能寺での急変を知った家康は、急ぎ京都を避け、堺から飯盛山、枚方より河内の尊延寺東の山中を経て京田辺市に入り、途中、朱智神社で一泊し、一山という百姓に案内してもらい、普賢寺、興戸、草内を通り、飯岡の村人にも助けられ木津川を渡り、宇治田原から伊賀を抜け無事に岡崎城まで辿り着くことができたといわれていることから、「家康公伊賀越えの道」とされています。
【観音寺 拝観受付所】
【観音寺 由緒書】
観音寺
京田辺市普賢寺下大門一三番地
真言宗智山派に属し、大御堂とも普賢寺とも呼ばれ寺伝によると天武天皇の勅願で義淵僧正が親山寺(筒城寺)を建立し、奈良時代に聖武天皇の勅願により、天平十六年(七四四)良弁僧正が再び造営し、伽藍を増築、親山寺を取り込み、息長山普賢教法寺と号し、良弁の高弟実忠和尚を第一世とした。またその時に大御堂本尊として大六観世音を安置したという。
この観世音が今に伝わる十一面観音立像(国宝)であると伝えられる。この像は、等身大の木心乾漆造であり、少年のような初々しい顔だち、引き締まった肉付きの良い体躯など、天平彫刻特有の緊張感がある。
奈良聖林寺の十一面観音とよく比較されるが、ともに官営の造仏所で同じ奈良時代後半頃に製作されたものであろう。
京田辺市教育委員会
京田辺市文化財保護委員会
本殿の前には鬼瓦が並べられている。
【大御堂(本堂)】
1953年(昭和28年)3月に再建。
観音寺の庭園
地衹神社(ちぎじんじゃ)
京都府京田辺市普賢寺下大門に鎮座する式内社です。観音寺の境内に鎮座しています。
創建年代や由緒は不明です。地衹神社は観音寺、その前身である普賢寺の鎮守社として祀られていました。
江戸時代には観音寺の境内に「権現大明神」「地主権現」の二社が鎮守社として鎮座していたことが記録にあるそうですが、現在は当社一社(と境内社二社)が観音寺境内に鎮座し、どのような経緯で現在の形になったのかはよくわかっていません。
また、権現大明神と地主権現のいずれが式内社「地祇神社」なのかについても錯綜があったようです。二社を併せて現在の形になったのかもしれません。
地衹神社の入口は観音寺本堂の左側にある。
【鳥居】
鳥居をくぐると階段(参道)をあがる。
【地衹神社 由緒書】
地衹神社
京田辺市
京田辺市普賢寺下大門六五番地
大国主命・大山衹命・活気長足比売命をまつる式内社である。
明治初めのころは、地主神社と呼ばれていた。
正徳元年(一七一一)の『山州名跡志』には、大御堂(現在の観音寺)の鎮守として、権現大明神と地主権現の二社がみえる。現在の本殿は三間社の流造で覆い屋のなかにある。この覆い屋の石壇に「天文十辛丑年(一五四一)卯月吉日大西備前守」と刻まれたものがある。
当時、このあたり普賢寺谷の地侍たちは惣氏神の朱智神社や惣氏寺の普賢寺を中心に結束し、大西氏は指導的立場のひとりであった。元亀四年(一五七三)将軍足利義昭が槇島城で織田信長に対し挙兵するが敗れ、義昭は普賢寺谷を経て河内若江城へ出奔する。地元の所伝では大西備前守敏元が足利側でこれに参戦し、将軍に従い若江城で討死したとされる。
例祭 十月十八日
京田辺市文化財保護審議会
【社殿】
小さな狛犬の阿形
小さな狛犬の吽形
【拝殿】
コメント