やわたのはちまんさんの名で親しまれる石清水八幡宮。
周辺マップと路線経路
石清水八幡宮周辺(駅前)
京阪電車、石清水八幡宮駅をおりたロータリーにエジソンの胸像がある。
それは1880年のことエジソンと八幡男山の竹このふたつの優れた素質が結びついて電球の輝きが人類のものとなった
エジソン像より
八幡市民はふるさとが世界に希望の光をもたらす起源になったことを喜び誇りをかけて平和な都市づくりをめざしている
駅前のロータリー。
引窓南邸跡の碑
人形浄瑠璃「双蝶々曲輪日記」の場面、「引窓」の舞台となった場所とのことです。
石清水八幡宮入口
駅から歩いてすぐに一ノ鳥居に到着。
一ノ鳥居
鳥居前には大きな灯篭がある。
一ノ鳥居を下から撮影。
頓宮殿までの参道。
放生池(ほうじょういけ)
時期が良ければアサザの花が見れるとか。
男山には多数の名水湧水が出る所があり筒井は中でも 一番の清水だと言われている。
頓宮殿
頓宮殿の門。
門をくぐると頓宮殿の裏側。
美しい。
正面から撮影。
石清水八幡宮 頓宮・極楽寺跡
解説板より
回廊に囲まれた一画を「頓宮(とんきゅう)」といい、毎年9月15日に勅祭「石清水祭(いわしみずさい)」が行われます。石清水祭の起源は、九州・宇佐神宮から八幡・男山への八幡大神の遷座より、4年後の貞觀5年(863)、宇佐神宮に倣って始められた仏教的な儀礼「放生会」に遡ります。京都の葵祭、奈良の春日祭と並ぶ三大勅祭の一つで、真夜中に山上の本殿から続く行列は、現代によみがえった平安絵巻ともいわれています。
江戸時代以前は、回廊内の東に頓宮、西には現在の頓宮斎館の位置に、極楽寺がありました。
極楽寺は元慶7年(883)、石清水八幡宮初代別当・安宗が建立しました。男山の麓の中心施設であり、高良神社とともに、「徒然草』第52段の、仁和寺の法師の逸話に登場します。
鳥羽伏見の戦いの際に周辺の建物は焼失しました。八幡市の善法律寺に現存する宝冠阿弥陀如来像は、このとき極楽寺から移されたものと伝えられています。
重要文化財 石清水八幡宮 五輪塔(ごりんとう)
頓宮殿の横から抜けると何かある。
写真じゃわかりにくいかもだけど、かなり大きい。高さは6メートルにもなる。
形は5つの要素を象徴している。
重要文化財 石清水八幡宮 五輪塔(鎌倉時代) 一九五七年二月十九日指定
この石塔は、鎌倉時代(十二世紀末~一三三三年)頃に建てられた五輪塔です。高さ六メートル、最下段の横幅は二・四メートルあり、中世以前の五輪塔では日本最大であり、国指定重要文化財となっています。
解説板より
五輪塔は仏塔の一種であり、平安時代中期に日本で建てられはじめました。ほとんどの場合石造りで、形は物質構成の五つの要素を象徴しており、下から順に「地、水、火、風、空」を表します。小さい五輪塔の多くは、墓標や記念塔として寺院などで建てられました。
一方、この石塔には刻名がなく、制作者や年代、目的など不明で、謎が多い五輪塔です。言い伝えによると、平安時代末頃、日宋貿易の摂津尼ヶ崎の商人が中国から帰国する途中、海上で嵐に巻き込まれ、あわや転覆かの時、石清水八幡宮に一心に祈ったところ、無事本土にたどり着くことができ、感謝してこの石塔を建立したといいます。この話から、「航海記念塔」とも呼ばれています。
となりは神應寺。
谷不動堂の道標。
この先はまた今度行ってみる。
高良神社(こうらじんじゃ)
高良社
御祭神
高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)
御神徳
八幡の氏神様
心願成就の神様
“藤井”高良神社鳥居の横にある。八幡五水の一つとの事。
宿院と高良神社
解説板より
この周辺は、平安時代に始まる放生会(現在の石清水祭)のとき、八幡大神が山上から御鳳輦で頓宮に移られ、一晩滞在されることから、「宿院」と呼ばれました。
頓宮の北にも、京阪電車八幡市駅前ロータリー周辺から大乗院などの寺院が建ち並び、大層賑わっていました。鎌倉時代の随筆「徒然草』第52段に、仁和寺の法師が、かねてから念願であった石清水八幡宮を参拝にきたが、山上に本宮があることを知らず、山下の極楽寺や高良神社を拝み得心して帰ってしまったという話がありますが、700年程前の宿院の賑わいを今に伝える逸話です。
貞観2年(860)創建と伝わる高良神社は、この周辺の古い地名「カワ(ハ)ラ」に由来するとも言われます。現在の本殿と拝殿はもとあった仏教色が失われていますが、創建当初から位置は大きく変わっていません。江戸時代中期に郷民が高良大明神を氏神として始めた祭りは「太鼓まつり」として再興され、八幡の夏の風物詩として市民に受け継がれています。
高良社
立札よら
石清水八幡宮の摂社で高良玉垂命を祀る。豊前国(現大分県)宇佐八幡宮より八幡大神を勧請した行教和尚が貞観二年(860)六月十五日に社殿を建立したと伝えられ、吉田兼好の「徒然草」にもその名が見える。往時は頓宮・極楽寺と共に荘厳を極めていたが、慶応四年(1868)戌辰戦争の兵火に罹り焼失、現在の社殿は明治十七年(1884)に再建されたもので、一間社入母屋造檜皮葺である。
また、高良社は八幡の産土神として崇敬も篤く、毎年七月十七・十八日の例祭日には、「ヨッサーヨッサー」の勇壮な掛け声中、市内各区より太鼓神輿が担ぎ出され賑わう。
拝殿と本殿
「京都の自然二百選」 選定植物 タブノキ
高良神社の境内にある樹木。タブの木は、摂社・高良神社の御神木で、樹齢約700年ともいわれる。
頼朝松(頼朝公ゆかりの松)
1195年(建久6年)、東大寺の大仏殿落慶供養に参列するため上洛した源頼朝は、石清水八幡宮を参拝している。
このとき、鎌倉から六本の松の苗木を持参して石清水八幡宮の境内に植え、石清水八幡宮から持ち帰った松を鎌倉鶴岡八幡宮の境内に植えたのだと伝えられている。
六本松のうち一本が生き残っていたが、 昭和二十二年、落雷によって焼失してしまったため、昭和三十年に現在の頼朝松
が奉納されたとの事。
頼朝松のすぐにある参拝道は裏参道。
安居橋周辺
安居橋
能蓮法師歌碑
石清水 きよき流の 絶せねば やどる月さへ くまなかりけり
古くなって読みにくい立札。
相槌神社(あいつちじんじゃ)
正面から。
相槌神社は、八幡五水として知られた井戸・山ノ井のそばに建てられた、刀剣に関係の深い神社。
神社に伝わる伝承や江戸時代の記録では、平安時代に活躍した有名な刀鍛冶、大原五郎太夫安綱(やすつな)が、山ノ井の水を使って刀を鍛造したとき、神が来て「相槌(あいづち)」をなす、交互に槌を打ち合わしたため、ここに神を祀ったといいます。その刀は、源氏一族に伝えられてきた名刀、髭切と膝丸であったとも伝わる。
江戸時代には「合槌稲荷社」と呼ばれており、今も祭壇の両脇には、二体のキツネの像が並んでいます。別名を藤木井とも呼ばれた山ノ井は、元禄9年(1675)に石製の井筒などが寄進されて整備され、八幡五水のなかでは唯一、今も豊富な水が湧き生活に使われています。神社の銘板には、いつの頃か不明ですが、平安時代の著名な刀工・三条小鍛冶宗近の名も加えられました。江戸時代中期、宝永7年(1710)頃までは石清水八幡宮の管理下にありましたが、その神徳への信仰が非常に強かったことから、その後の時代は近隣住民が独自に神社の修繕を行ってきたことが、幕末の地誌『男山考古録』に書かれています。
謎の多い刀剣である髭切と膝丸は、来歴に諸説あり、長い歴史の中でその名称と所有者が何度か変わっていることがわかっています。現在は、京都の北野天満宮と大覚寺にそれぞれ保管されている2本の刀が、伝説の髭切と膝丸ではないかと考えられています。これらの刀は重要文化財に指定されている。
別名を藤木井とも呼ばれた山ノ井。
相槌神社の裏手から石清水八幡宮表参道へ行ける。
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