河北大明神の祭神は天照大神、産土神として鎮座。宝永元年からの新田開発を行った地、元は開発にも従事した人々の朝夕の集散場所だったという「河北」発祥ともいえる神社。
寝屋川市 河北西町
河北大神社(かわきただいじんじゃ)

大阪の神社

寝屋川と清滝川に挟まれた少しくぼんだ土地に鎮座する。境内は全体的に小さく荒涼感がただようが、地元消防団の倉庫、集会所があり、地域の氏神様としての役目を果たしている。案内板によると昔、河北は河内屋北新田と呼ばれ、河内屋源七が宝永元年(一七〇四年)に新田開発を行い、宝永五年(一七〇八年)に完成させたとの事で、この辺りは河北の新田開発の中心だったそうで、開発に従事した人たちの集散の場所でもあったという歴史ある神社。

江戸時代中頃以降、水田の開発が盛んになり、新たに作られた水田を新田と呼んでいたの事です。寝屋川市の地域では太間たいま堀溝ほりみぞ萱島かやしまで新田の開発が行われました。一七〇四年(宝永元年)にそれまで大阪府柏原市から北流して深野ふこの池(大東市)や新開池(東大阪市)に流れ込んでいた大和川を、堺付近へ流れる現在の流路に付け替える工事が完成し、旧大和川水系の川床や池の開発が大規模に行われるようになりました。大坂の商人の河内屋源七は、深野池の北側を開発し、ここを河内屋北新田としました。また、寝屋川市堀溝2丁目にある【一心山 大念寺】には河内屋北新田を開発した河内屋源七の墓があるとの事です。

河北大神社の基本情報

【鎮座地】
〒572-0817大阪府寝屋川市河北西町おおさかふねやがわしかわきたにしまち4-8

【神社名】
河北大神社かわきただいじんじゃ河北神社かわきたじんじゃ

【御祭神】
天照皇大神あまてらすすめおおみかみ

【末社】
須賀神社すがじんじゃ八坂神社やさかじんじゃ

【祭日】
例祭  十月十六日

【御利益】
国土安泰 子孫繁栄 開運 仕事運 合格 勝運

周辺マップと経路

画像出典:© OpenStreetMap contributors

入口

【河北大明神案内板(河北の開拓)】

河北大明神(河北の開拓)
河北かわきたは、もとは河内屋北新田と呼ばれ、河内屋源七が宝永元年(一七〇四年)に新田開発を行って、宝永五年(一七〇八年)に完成させたものです。同時に河内屋源七は東大阪市日下町くさかちょう一帯も開拓しました。河内屋北新田に対して河内屋南新田と称しています。
また、ここ河北大明神の祭神は天照大神あまてらすおおみかみ産土神うぶすなのかみとして鎮座ちんざしますが、この地は元は開発にも従事した人々の朝夕の集散場所であったといわれています。「河北」発祥ともいえる当地に氏神をまつり、新しい村の繁栄を願った先人の声が聞こえるようです。

寝屋川市

【手水】

小さな龍がいる。

鳥居の前にイチョウが二本並ぶ。当然この間を通り鳥居をくぐる。

【鳥居】

社殿

【狛犬 阿形】

【狛犬 吽形】

【社殿】

宝永五年(一六二八年)に御祭神(天照皇大神)が祀られたと伝えられてる。

【拝殿内】

末社 須賀神社 八坂神社

末社の須賀神社・八坂神社(祇園社)

末社の須賀神社と八坂神社の相殿と思われる。

由緒
 当社は、河北の里は東に生駒飯盛の峯々を目の前にして、氏神様が祀られています。宝永五年(一六二八年)に御祭神(天照皇大神)が祀られたと伝えられています。中世の荘園時代に伊勢神宮の社頭として全国的に御厨が寄進されたのであります。その時に、御祭神(天照皇大神)として祀られたと伝えられています。
 明治五年村社に列せられる。
 末社 須賀神社・八坂神社(祇園社)は、もと新田支配人・朝田家の屋敷大神として祀られていたそうです。その後境内に移されたと伝えられています。

神社庁ホームページより

境内の様子

【御輿庫】

【消防団の倉庫】

【公民館】

脇に昔の石碑みたいなのがある。

【河北大神社修復の案内】

雨漏りや経年劣化による壁落ちや腐敗でかなり傷んでいる様子。地盤の崩れなどは深刻。

河北神社の木々

鳥居前のイチョウ。

こちらは末社横に立つ寝屋川市の保存樹エノキ。

境内入口に立つ楠木かな?。

Googleマップ河北大神社

河北大神社(大神社) 072-893-1212
河北大神社(大神社) · 〒572-0817 大阪府寝屋川市河北西町4−8
★★★★☆ · 神社

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