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由緒と入口
大利神社由緒
大利神社由緒書より
江戸時代末に刊行された河内名所図会には 大歳神祠(おおとしのやしろ)大利村にあり 北里の産土神とす 例祭九月十五日 とある。 本地(大字大利)は古来茨田郡に属し、もと九個荘の内にして、大年村と称したが、後に利益を生むようにと大利に改められた(寝屋川市誌より)。久安元年(一一四五年)星田小松寺文書に大利郷とある。貞享三年(一六八六年)の調査では昔よりあり。創建年代不明である。元治元年(一八六四年)の大利村明細帳に真言宗京都泉涌寺非田院末寺社僧金剛寺 氏神境内に御座候とあり、明治の神仏分離までは宮寺の社僧により管理されていた。
河内九個荘村郷土誌によると、金剛寺は東の坊と呼ばれ、慶長八年(一六〇三年)豊臣秀頼による総持寺(西国二十二番札所)再建の時に当時の仁王を移したとあり、また総持寺山門はもと金剛寺のものと伝えられている。宝永六年(一七〇九年)の拝殿再興の棟札には住持金剛寺圓了、文化十四年(一八一七年)の修覆天満宮社頭の棟札には遷宮権律師普見とある。天保十二年(一八四一年)再建。
往古より農家の五穀豊穣を守る神である大歳神を祀って来たが、寛文十年(一六三三年)永井信濃守尚政の領地となってから菅公を合祀し、後に天満宮、氏神社、大利神社と改称される。明治五年村社に列し、同四十三年神饌幣帛供進社に指定せられた。境内地二八〇坪、末社に稲荷社、皇大神宮社、八幡宮、神牛舎あり。拝殿には江戸時代末期に奉納された三十六歌仙の額が並べられている。大正十五年の財産登録台帳には地車倉庫六坪の記載があるが、昭和四十年代初めに焼失してしまった。
稲荷社の白菊大神は京都伏見稲荷大社の三ノ峰より勧請したる。
八幡宮社は大利村の庄屋茨木家の鎮守であったが、明治中頃に同家が転居した後、大利神社の末社となる。文化九年修覆、慶應元年再建の棟札あり。
【鳥居】
参道と境内の様子
【手水舎】
【参道】
【案内板】
【手水】
【おみくじ掛け】
【神牛舎】
本殿(拝殿)
【狛犬 阿形】
【狛犬 吽顔】
【本殿】
【拝殿】
大利神社の末社
【八幡宮】
八幡宮社は大利村の庄屋茨木家の鎮守であったが、明治中頃に同家が転居した後、大利神社の末社となる。
【稲荷社 白菊大神】
稲荷社の白菊大神は京都伏見稲荷大社の三ノ峰より勧請をされる。
【皇大神宮社】
大利神社の保存樹
【楠木】
樹高(m) 18.57 幹回り(m) 2.20 樹齢100年
【楠木】
樹高(m) 18.75 幹回り(m) 1.70 樹齢100年
【楠木】
樹高(m) 16.23 幹回り(m) 1.70 樹齢100年
【楠木】
樹高(m) 16.54 幹回り(m) 1.60 1.50 樹齢100年
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