JR大阪環状線、鶴橋駅から徒歩9~10分ほどの生野コリアタウンに接している生野区桃谷に鎮座されます。また、東へ100メートルほどの場所に彌栄神社が鎮座されます。由緒によると、今から1600年程前の猪飼野は猪甘津と呼ばれ難波の入江の港であり猪甘部(猪飼育していた古代の官職。 鷹甘部などと同じ)が住まいしていた所でありました。
日本書紀仁徳天皇14年の条に 「猪甘津に橋をわたす名付けて小橋という」とあり、当宮の前を流れていた百済川 (旧平野川) に架けられた文献上最古の橋がこれです。
難波に都を定められた仁徳天皇は鷹狩の折り、 また、当地の東南方 (現在の東住吉区あたり) に渡来し住まいする百済の人達の様子をご見聞の為、道すがら度々当地の森にご休憩されその由縁により御幸の森と呼ばれる様になりました。
天皇崩御の後、西暦406年、人々はこの森に社を建立し天皇のご神霊を奉祀し御幸の祠とも御幸宮とも称したと伝えられます。
年代は下って西暦850年頃、この地方に疫病が流行し人々が罹病に悩まされていた折り、当宮の社僧大蔵院行綱は京都五條天神社に参籠し災厄追放を祈願し、同社の御祭神、少彦名命のご神霊を当宮に勧請奉斎したところ、疫病も治まったといいます。
なお、この頃から天王天神社とも天神宮とも呼ばれるようになりました。
次に玉造清水谷付近に忍坂彦命を奉祀し地主神として崇拝していた社がありましたが大坂夏の陣の兵火に遭い消失、それを畏した大坂城主松平忠明は当宮にご神霊を奉遷するように指示し旧平野川中洲の地3000歩と灯明台1基を寄進されました。
周辺マップと路線経路
御幸戎神社 入口
疎開道路から入口となります。
【社号標】
一端、鶴橋街道を横切り境内へと入ります。
【鳥居】
境内の様子
【参道】
【狛犬 阿形】
【狛犬 吽形】
【手水舎】
出水鉢横には水神の祠が祀られています。
【社務所】
【さし石】
猪飼野が農村であった時代、村の若者達がこの石を持ち上げ力比べ腕力自慢を競った遊具の一つです別名、力石とも呼ばれ重さはゆうに七〇キロを超えています。
【神馬と神額】
【灯明台】
元和二年(西暦一六一六年)大坂城代松平忠明により旧平野川の船の安全運行の灯台として寄進されたもので当初川沿いに三十三基設置されたと伝えられ今は一基だけ当に残っています。
境内社 御幸戎神社
御幸戎神社
昭和27年(1952)に、戎大神を勧請奉祀し、建立されました。
毎年1月9・10・11日に、商売繁盛・福徳祈願を願う戎祭が行われます。
境内社 菅原神社
明治18年(1885)に建立されました。
菅原道真をお祀りしています。
猪飼野小路(現:勝山北五丁目)に祀られていた社を合祀したのが始まりとされています。
【地車庫】
境内社 稲荷神社
文政13年(1830)に伏見稲荷神社から勧請して建立されました。
農耕神・穀霊神・生業守護神・医薬の神として、全国各地で祀られています。
御幸森天神宮 社殿
【狛犬 阿形】
【狛犬 吽形】
【社殿】
仁徳天皇・少彦名命・忍坂命の三神がお祀りされています。
現在の社殿は昭和5年(1930)に建築されたもので、平成18年(2006)に、御鎮座千六百年の記念事業としてお屋根の葺き替えが行われました。
【拝殿】
【拝殿内】
平成12年4月28日本殿・幣殿・拝殿透塀が国の登録有形文化財に指定されました。
北側の入口
北の出入口は御幸通へと出ます。
【北鳥居】
【狛犬 阿形】
【狛犬 吽形】
【難波津の歌碑】
解説板より
難波津に咲くやこの花冬籠り今は春べと咲くやこの花
奈尓皮ッ尓 佐久矢己乃皮奈布由己母利伊真皮て留部止佐久□□□□
(木筒に書かれた万葉仮名。原文のまま。 )
なにはつに さくやこの花ふゆこもり いまははるへとさくやこのはな
(歌人・藤原定家直筆の『古今和歌集』仮名序より。
この地は、猪飼野と呼ばれ古代より日本と朝鮮半島の人々が交流してきたところです。 約千六百年前、百済からの渡米人王仁博士が、当神社の祭神である仁徳天皇の即位、春の到来になぞらえて祝い、難波津の歌を詠んだと伝えられています。それから歳月を経て江戸時代に、日本と朝鮮との善隣友好の使節団「朝鮮通信使」が日本に十二回、(そのうち、大阪には十一回)やってきました。その通信使の来日を祝し、対馬藩の通訳だった雲明が、この和歌をハングルで表し贈ったとされます。 一九九四年、朝鮮通信使研究家の辛基秀によって兵庫県たつの市の旧家の八瀬家で発見されました。
日本と韓国・朝鮮との友好・共生の時代が永く続くこと願い、この歌碑を難波の猪飼野の地に建立します。
【御幸森・猪飼野・鶴橋の地名の由来】
「御幸森」の地名由来
摂陽群談 (元禄14年刊)
この辺りは、百済野(くだらの)といい 三韓(百済・新羅・高句麗) 特に、百済の
人達が多く住み、優れた文化の華をさかせていた。
又、この地は水鳥の群接する景勝地であり、仁徳天皇は鷹狩りの為にしばしば行幸したり、この地の人々の状態を見するための道すがら度々当地の森に休憩したことから、この所を「御幸の森」と称するようになったと言われている。
※御幸森天神宮・・・・・ 仁徳天皇を主祭神とし、 昔の東成郡猪飼野村の氏神天皇崩御の後、この森に社殿を建立し天皇の御神霊を奉祀して、御幸宮と称した。 年代は降って、平安時代中頃全国に疫病が流行し人々は大いに恐れ苦しんだ。そ時、社僧大蔵院行綱は当宮に病気平癒、厄除の神 少彦名命を勧請奉斎し、ひたすら厄病を祓う御祷を行なったところ厄病は鎮まり、以後当村の者は厄病にかかることはなかったと伝えられている。
「猪飼野」の地名の由来
この、「猪飼野(いかいの)」の地名の起りは、大変古く日本書記の仁徳天皇14年の条に、猪甘野(いかいのこ)に替わたす その猪甘の津(みなと)に由来します。
後に、入江が陸地化して「 猪飼野」となったと言われている。猪甘(いかい)というのは猪飼・猪養と意味は同じて、朝延に献ずる為の猪(完全に家畜化した豚ではなく半野生の猪であったろうと言われる)を飼うことで、古代にはこの津のあたりに猪飼部(いかいべ)の民が多く居住していたと思われる。
※1973年(昭和48年)2月、行政当局が、住居表示制度導入に伴ない
生野区の町名から「猪飼野」の地名消滅。
○猪飼野村を現町名で表わすと
・鶴橋4、5丁目 桃谷3~5丁目、勝山北
5丁目、中川西1~3丁目
・中川1、6丁目、田島1~2丁目、東成区
玉津2~3丁目の一部
現在も「猪飼野」の名が使われているのは※猪飼野橋・猪飼野新橋・猪飼野保存会館の3つだけである。
「鶴橋」の地名の由来
※橋の元々の呼び名は、「つるのはし」
「つるのはし」は、もとの平野川にかけられていたが、この川は大正時代後期
の平野川削に伴ない、埋め立てられた為、廃橋となった。
この「つるのはし」は、わが国最古の橋といわれている。日本書記に、仁徳天皇猪甘津に橋をつくる、この処を小橋と名付く」と記載されており、橋として文献に初めて登場した。
そして、昔このあたりに鶴がよく飛んで来て群れ集まったことから、いつのまにか「鶴橋」と呼ばれるようになったと言われている。
摂陽群談〉 (元禄14年刊)
【遥拝所】
遥拝所
故郷のあるいは遠くの神様を遥拝する所です。
玉垣の中にある大きな石は仁徳天皇が鷹狩などのおりに腰を掛けて休憩された石
と伝えられています。
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