創建年月は不詳。加茂健美命神社の案内によれば、桓武天皇の勅命により和気清磨呂公が、この地を河内の一の宮として、『賀茂の大神』を祭られたのが始まり。
応仁元年(一四六七年)に応仁の乱が起こり、兵火にかかり一切の財宝焼失し、今に残れるものはない。
加茂神社は、これより百六十余年を経て、寛永六年(一六二九)に産土神として再建され、明治五年、蹉跎神社に合祀、明治十五年に現在地に復社し、今日に至るとの事です。
桓武天皇(かんむてんのう)
日本の第50代天皇、平城京から長岡京および平安京への遷都を行った。
(737年~806年)
和気清麻呂(わけのきよまろ)は、奈良時代末期から平安時代初期にかけての貴族。
周辺マップと路線経路
加茂健豆美命神社 入口
【入口】
入口は急勾配の坂を登った所にあります。
【社号標】
社号標には「加茂神社」と書かれているが、正式名は『加茂健豆美命神社』のようです。
【鳥居】
【再興記念碑】
【手水舎】
【加茂健豆美命神社 案内板】
当社は、人皇五十代桓武天皇の御代、勅命により和気清磨呂公、この地を河内の一の宮として、『賀茂の大神』を斎き祭れるがその始めなりという。古き史を繙けば、祭神『賀茂の大神』は、神武天皇、国を建つるにあたり、畿内の豪族として大功をたて、山城の国を賜るや、民生の安定に貢献、ために『賀茂御祖の大神』として奉祭さる。今の京都『下鴨神社』これなり。御分霊を当地に迎えるにあたり、賀茂の社家の人々多く移り住み、堂山に三千坪の神域を開き、その中腹に広壮な社殿を造営せり。丘の下を走井といい、今の走谷これなり。近くに清冽な御手洗川あり。社参の人々この川にて禊し、敬神の誠を捧げしという。しかるに約六百七十余年を経て応仁の乱起こり、惜しくも兵火にかかり一切の財宝焼失し、今に残れるものなしと言う。されども今日、走谷に宮の上・宮の下・大門前・堂前等の地名が残れるは、往時の隆盛を窺うに足るというべきか。わが『加茂神社』は、これより百六十余年を経て、寛永六年に『産土神』として再建され、氏子の年長者が『一老』と言いて神主となり、氏人が祭員となりて春秋の祭典を執行せり。明治五年『蹉だ神社』に合祀、同十二年、現在地に復社し今日に至る。明治三十九年、加茂の森の浄財をもって拝殿を、昭和三十九年、社務所を新築、昭和四十九年、本殿を改築せり。境内に『御手洗・琴平』の小祀あり。神と人相和し、神霊に仕えるはわが民族の卓越せる資質にして、わが走谷も千百余年にわたりて、『賀茂の大神』を奉祭す。特に『加茂の大神』は家内安全。夫婦和合。縁結びに霊験あらたかなれば、春秋の祭りを始め、初宮参り等などの祭りを怠りなく務め、神霊の加護にあずからんことを。
境内案内板より
加茂健豆美命神社 社殿
【狛犬 阿形】
【狛犬 吽形】
【社殿】
【額】
ここも加茂神社とある。
【拝殿内】
【本殿】
境内社 御手洗神社
【狛犬 阿形】
【狛犬 吽形】
【お社】
境内社 金毘羅神社
【お社】
コメント