JR星田駅から徒歩約15分ほどの場所に鎮座されます。星田神社が創建年代などは詳らかではありません。伝承によると本殿の住吉四神をお祀りしたよりも遙か以前に一本の大杉があり、そこに当地の氏神として交野物部の祖である饒速日命を交野大明神としてお祀りしておりました。そして、この大杉が枯れた後もその芯をご神体として大切に祀られておりました。
天文4年(1535)の奥書のある神明帳には、この交野大明神の名が記されており、文化2年(1805)の三浦蘭阪著「川内奨撫古小識」には、当神社に正平21年(1366)の銘の石塔があったと記されています。また、御神宝として鎌倉時代の御神刀が当社に伝わっています。
その後、宝永年間(1704~1711)に当地方の総氏神であった磐船神社のご神霊(住吉四神)を当時の磐船神社神主であった平井源左衛門がお遷ししてお祀りし、交野大明神のお社よりも大きな神殿が建てられることとなりました。そして、元々お祀りしておりました交野大明神のお社は古宮と呼ばれるようになりました。以後、御本殿にお祀りされた住吉四神は星田の氏神として崇敬されました。
周辺マップと路線経路
星田神社 入口
【星田神社正面】
【社号標】
星田神社の入口の反対側に小さな公園があります。
滑り台とブランコ
神輿庫もあります。
入口には池があり、橋が架かっています。
【由緒書き】
【放生池改修竣功の碑】
放生池改修竣功の碑
石碑より
われわれは常に生かされていることに感謝しなければならない。
人類は、ともに自然と生命に対する畏敬と感謝の念を抱き共生の道を歩まなければならない。
ここに放生池の改修を竣へ生きとし生くる全ての生命に愛と慈しみの心を込めて記す。
平成十五年十二月吉日
宮司
【狛犬 阿形】
【狛犬 吽形】
【鳥居】
境内の様子
【手水舎】
星田寺
星田寺は星田神社に隣接し、同社の神宮寺であったので宮寺と呼ばれます。
「ほしだでら」ではなく「しょうでんじ」と読むそうです。
宗派は東寺真言宗です。平安時代後期の創建といわれる星田寺は、檀家というものを持っていなかったため、寺の維持が難しく、その為、富くじ(現在の宝くじのようなもの)を売って暮らしをたてていたという古い記録があるそうです。
星田神社 社殿
【社殿】
【ご祈祷案内】
ご本殿には、伊弉諾尊が禊祓(みそぎはらい)を行われた際に海中より出現された底筒男命・中筒男命・表筒男命の三神、そして、神功皇后を祭神としてお祀りしています。総称して住吉大神と呼ばれます。
神代以来(神武天皇即位以前の、神々がこの国を支配したという時代)、遣隋使・遣唐使に代表される航海の守護神として崇敬を集め、また、王朝時代には和歌・文学の神として、また、現実に姿を現される神としての信仰もあり、禊祓、産業、貿易、外交の祖神と仰がれています。また、住居守護、安産などの様々な御神徳で御崇敬される神様です。
【拝殿】
【神楽殿】
【絵馬掛け】
境内末社
【鳥居】
【狛犬 阿形】
【狛犬 吽形】
境内末社 交野社(古宮)
星田神社に最初にお祀りされた神様です。大昔、一本の大杉があって、そこに当地の氏神として交野物部の祖である天照国照彦火明櫛玉饒速日命を交野大明神としてお祀りしておりました。そして、この大杉が枯れた後もその芯をご神体として大切に祀られていました。
【御祭神】
櫛玉饒速日命 進雄命(須佐之男) 大雀命(仁徳天皇)
【ご利益】
病気平癒・無病息災・厄除開運・招福
【おもかる石】
交野社前には“おもかる石”が置かれています。
境内末社 八幡社(新宮山八幡宮)
八幡社はもともと星田神社の東に位置する新宮山の頂上に明治時代初期まで、新宮山八幡宮としてお祀りされていました。しかし、明治維新の神仏分合整理により、当社末社の八幡社に遷座されました。
八幡宮鎮座の由来は、平安時代南都大安寺の僧・行教和尚が豊前国(現・大分県)宇佐八幡宮から男山の峯(石清水八幡宮)に御神霊をお移しする際に新宮山に立ち寄ったことにも由縁があります。後に星田の土地が石清水八幡宮の荘園となり、この地域の守護神として、八幡宮の分霊をお迎えしてお祀りし、石清水八幡宮を本宮、こちらを新宮と呼びました。
室町時代中期には新宮山八幡宮の北側に宮寺「愛染律院」が存在し、神仏習合の形で八幡社の傍に六小社、寺院六支院があり、隆盛を極めました。また、慶長20年の大坂夏の陣で東高野街道を南下した徳川家康が星田に宿営し、新宮山に陣を敷いた際には八幡宮社前の松の大木に軍旗の白旗を掲げて、八幡神の御神徳を仰いだという逸話があります。
【御祭神】
應神天皇(八播大神) 大雀命(仁德天皇) 神功皇后 武內宿酒
【ご利益】
学術・技芸・武勇・行政・長寿
境内末社 恵比寿・琴平社
明治の神仏分離の際、星田の慈光寺から金比羅社を星田神社に遷霊し、合祀しております。1月9日から11日の3日間は戎祭が盛大に行われ、遠方からも参拝の方で境内が賑わうとの事です。
戎信仰は戎大神様が釣り竿や鯛を持つことからも分かるように、元々は海の彼方の異郷から恵みをもたらす漁業の神として信仰されていました。その後、市場の発展により、恵みの神であることから、商売繁昌・産業発展の守護神として性格が表れ、商売が盛んな大阪を中心に関西一円の人々から深い信仰を集めております。
【御祭神】
事代主命 (恵美須) 大物主命(大黒天) 三輪明神 市杵島姫命(辨財天)
【ご利益】
縁結び・商売繁盛・病気平癒・音楽・財宝
境内末社 天照社
【御祭神】
天照大御神・豊受大御神(宇迦之御魂大神)
【ご利益】
世界平和・国家安泰・五穀豊穣・商業・経済・工業
境内末社 天満社(菅原社)
【御祭神】菅原道真公
右奥に小さな神牛がいます。
境内末社 祖霊社
【御祭神】国難殉死英霊・故総代役員・神社特別奉仕者
【祖霊社由緒】
平成二年七月吉日
当、霊社は国難に殉し給ひし護国の英霊を祭祀す。
併せて神社に奉仕されし故神社総代等の御霊をも合祀奉る。国家国民の繁栄の基には国難に際し尊き命を捧げ護国の華と散り往かれし丈夫の坐します事を片時も忘れてはならぬ。亦、神社の維持興隆の為に尽くし給はる神社総代等の御功績に報い奉らねばならぬ。茲に謹みて御霊を奉安し高き尊き御勲功を称へ奉り稽首礼拝し奉ならん。
境内末社 庚申塚
【御祭神】太田命(猿田彦大神)
星田公園
緑豊かな高台にあります。家康が大坂の陣(1615)の時に軍旗を掛けた松の碑、また、新宮山八幡宮跡と愛染律院跡などがあり、隠れ歴史スポットです。広場、遊具、トイレもあります。
立派な門
階段を上りきるとトイレ。
【遊具】
【広場】
【星田公園の植物】
星田公園の植物
星田公園の植物は、大きく2つに分けることができます。1つは、公園整備以前から生育していた既存の植物で、もう1
つは、公園整備によって植栽した植物です。1. 既存植物について
案内板より
遠くから星田公園を眺めると濃い緑色に輝く大きな森が見えます。この大きな森の主役は、シイやクス、カシなどの大木です。 これらの常緑樹は、葉が厚いがあまり大きくなく、クチクラが発達して光沢があるため照葉樹とよばれています。
星田公園にも、このような照葉樹が生育していることから、このあたりが照葉樹林帯に属していることがわかります。
(図1参照)。
園路の南側の明るい林は、クヌギやコナラなどの雑木林です。クヌギやコナラ、 アベマキ、アラカシ、ジラガシなどの樹木の実を俗にどんぐり (図-2参照) と呼んでいます。 これらの木のなかには、シイタケのほだ木や炭の原料として利用されているものもあり、 実は食用にされていたこともあります。また、どんぐりの実でいろいろな遊び道具も作れますので秋の楽しみにして下さい。
その他にも、キリ、カキ、チャ、アオキなど人が植えたと思われる樹木や、アカメガシワ、 ヤマウルシ、アカマツなどの雑木も生育しています。
2.植栽植物について
植栽植物は、利用者の皆さんや通行の皆さんが、 四季の季節感や美しい景観が楽しめるような花木類を中心に植栽しました。
主な植栽植物の見頃
春 ユキヤナギ、レンギョウ、ヒュウガミズキ、コデマリ、ヤマブキ、ジンチョウゲ、アセビ、サツキ、キリシマツツジ、ハナガイドウ、コブシ、シダレウメ、ハナノキ、サトザクラ、カリン、ヤマボウシ、エゴノキ
夏 アジサイ、クチナシ、キンシバイ、サルスベリ、ヒメシャラ
秋 ミヤギノハギ キンモクセイ、 ニシキギ、カツラ、ヤマモミジ
冬 サザンカ、 カンツバキ、 ヤブツバキ
他 オカメザサ、キャラボク、ハマヒザカキ、カクレミノ、ヤマモモ、タブノキなど
【星田公園一帯の歴史】
星田公園一帯の歴史
案内板より
この星田公園一帯の丘陵地は新宮山 (しんぐうやま)と呼ばれ、山頂部には明治の初めごろまで「新宮山八幡宮」が祀られ、北側の一段低い所には宮寺の「愛染律院」が建っていました。また山頂の本殿前には、慶長20年(1615) の大坂夏の陣に、当地に本陣を置いた徳川家康が軍旗を懸けたと伝えられる「旗かけ松」という松の大木がありました。
新宮山の名の起こりは、天暦3年(949) 当時三宅山と呼ばれていた星田一帯の土地を石清水八幡宮に寄進し、八幡宮の分霊を勧請して祀ったことから、石清水八幡宮を本宮と呼び当宮を新宮と言ったことによります。新宮山八幡宮は室町時代には隆盛を極め、文安2年 (1445) には六小社を有する大社と六支院が権勢を誇るかのように山頂に立ち並んでいました。
(大津市光明寺所有 愛染律院梵鐘銘)
しかし、その後はしだいに衰退を重ね、 新宮山八幡宮は明治5年(1872) に廃されて星田神社に合祀され、愛染律院もまた廃寺となって現在に至っています。
平成3年に交野市教育委員会が行った発掘調査では、神社創設を天暦年間とする確証は得られませんでしたが、鎌倉時代の終わり頃までには八幡宮が存在していたことが判明しました。また鎌倉時代から明治の廃寺に至るまでの間には、草創期(13世紀末~15世紀初頭)、戦後期(15世紀~16世紀)、江戸期(17世紀末~廃寺期) の3つの時期の建物跡が確認されました。この他、神社に関連する遺構以外にも、弥生時代の住居跡と推定される遺構や、土器が出土しました。
このように、この新宮山の地は、シイの大木が物語るように古代から現代にわたる数多くの歴史を秘めたところです。
【旗掛け松跡】
【新宮山八幡宮跡と愛染律院跡】
【案内板】
新宮山八幡宮跡と愛染律院跡
交野市教育委員会
星田公園は、かつて「新宮山」と呼ばれ、この付近に石清水八幡宮より勧請した八幡神を祭る新宮がありました。明治初年に星田神社へ移され、現在は天文一七年(一五四八年)銘宝筐印塔と延慶二年(一三〇九年)銘五輪塔基礎(上部は宝篋印塔)が残るのみです。慶長二十年(一六一五年)の大坂夏の陣で、徳川家康が松の木に軍旗を掲げ陣を置いた場所でもあります。
また、北側の一段低い地点に、尼僧として名高い大田垣蓮月も一時居住した愛染律院がありました。現在は歴代住職の墓地が公園の西端に残るのみとなっています。その地蔵菩薩立像は岡山県井原市の高山寺に移され、国指定重要文化財となっており愛染律院の威容を伝えています。 さらに、本尊であった釈迦如来立像は星田の光林寺に移され、梵鐘が滋賀県大津市の光明院に、半鐘が大阪府枚方市の浄念寺に伝えられています。
昭和五二年(一九七七年)、当時の交野市文化財保護委員・奥野平次氏がここに案内板を建て、「私はこの塔の前に立つとこの山は聖地だといつも思う」と記しています。
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