阪急電鉄京都本線の正雀駅から徒歩約20分ほど摂津市別府の番田水路沿いに鎮座されます。創建年代は延暦4年(785年)です。また、一津屋には同じ読み方の味生(あじふ)神社が鎮座されます。
由緒書きによると、孝徳天皇 (596年~654年)が難波に都を定めた時には「鯵生(あじふ)」という社号だったそうです。延元年間(1336年~1340年)に「味府」の文字に改められました。
昔は味府浜を船着場として賑わっていたとあります。
社殿は荘厳を極めていましたが、長岡遷都をきっかけに、延暦四年(785年)、御祭神を分かちます。
天照皇大神を別府の地に、若一王子を一津屋へ移築しました。
明治二十三年、火事で焼けてしまってあとかたもなくなる。
翌二十四年に社殿は再建され、以後百数年経過し、老朽化が激しく平成四年現在の社殿と末社、社務所が建立されました。
周辺マップと路線経路
味府神社 入口
【鳥居】
【社号標】
【味府神社 由緒略記】
【書籍】 大阪府全志 井上正雄著味府神社 由緒略記
案内板より
当神社は元、鯵生の宮と称し、約千三百数十年前、孝徳天皇が浪速に都を定めし時の鯵生の離宮に始まり、白雉元年正月孝徳天皇の行幸あり賀正を観す、と言う。(社記 日本書紀)御祭神は天照皇大神・若一王子・八幡大神を奉斎し、社殿は荘厳を極めたりしが、長岡遷都に伴い、延暦四年、神崎川を通ずるに際し、(大日本史 国郡史) 御祭神を分ちてこの地に移築さる。
天照皇大神を当別府の地に、若一王子を一津屋に、八幡大神を新在家に移し奉りて三社となす。
当神社はその根元にして、後に春日神・菅原大神を配祀して三座となる。
当初は鯵生の社号なりしが、延元年間今の味府の文字に改めたり、と言う。往時、境内は大樹うっそうと生い茂り、裏添いの大川は今の味生浜を舟着場として賑い、神社大いに栄え、狩野法眼の描ける社景屏風その他宝物什器幾多ありしが、明治二十三年社殿と共に灰燼に帰す。翌二十四年、先の社殿再建され、以後百数年経過、老朽化激しく平成四年現在の社殿 末社・社務所を建設し、在近郷崇敬者の信仰益々篤くなり今日に至る。
(大祭)一月一日、四月十三日、十月十三日
(中小祭)一月十五日、節分、二百十日、二百二十日、
十一月十五日、除夜
境内の様子
【参道】
【手水舎】
【社務所】
味府神社 社殿
【狛犬 阿形】
【狛犬 吽形】
【社殿】
【拝殿】
【神額】
【拝殿内】
【本殿】
【神輿庫】
【境内社】
八幡神社
【燈籠】
【境内の句碑】
“咥えたる 藁の甘味や 注連つくり” 比佐志
味府神社の樹木
北側には番田水路が流れる。
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