大阪生駒線沿いの大東市役所から北へ150メートルの所、大阪府大東市深野1丁目、寝屋川の右岸沿いに鎮座する。
別名、「深野神社」とも呼ばれている。両皇大神社の由緒は明らかではないが当神社の灯籠に文久年代(1861年から1863年まで)の銘が記されている。
大和川の付け替えにともない干上がった深野池の跡地では、約300haもの新田が開発され、深野・深野北・河内屋北の三新田には深野新田会所が、深野南・河内屋南の二新田には平野屋新田会所が置かれました。
享保7年(1722)の記録によれば、瓦葺きの本屋、長屋門、米蔵等が建っていたそうです。
周辺マップと路線経路
両皇大神社の入口
入口は公園になっている。まっすぐ進むと境内。
【深野新田会所と両皇大神社 案内板】
深野新田会所と両皇大神社
平成25年3月 大東市教育委員会
18世紀初め、大和川の付け替えにともない干上がった深野池の跡地では、約300haもの新田が開発され、深野・深野北・河内屋北の三新田には深野新田会所が、深野南・河内屋南の二新田には平野屋新田会所が置かれました。会所は、年貢の取り集めや幕府からの命令の伝達、周辺の村々との利害調整等、新田を維持管理するための重要な機能を担った施設でした。当地の北側は深野新田会所があった場所で、享保7年(1722)の記録によれば、瓦葺きの本屋、長屋門、米蔵等が建っていたことがわかります。また、明治5年(1872)には、河内国第四区の十七ヶ村の共同負担による深野郷学校が設立され、大東市域において初めて近代的な公教育が行われた場所でもありました。両皇大(りょうこうたい)神社は、天照大神・豊受大神(とようけおおかみ)・菅原道真を祭神とし、明治5年に村社となる以前は、「神明社」といわれており、当時の扁額が残されています。かつて境内の北側半分は、深野新田会所の敷地内でした。神社の創建年代は不明ですが、新田前の燈籠には、「天明二年寅年九月吉日」(1782年9月)の銘がり、会所の設置後早い段階で存在していたことが推定されます。また、境内入口にも燈籠がありますが、これは文久年間(1861年~1863年)に深野新田の東部にある字太光田(たいこでん)(北条一丁目)に当社の分灯として建立されていたもので、平成15年に当地に移設されました。
古くから深野新田の氏神として親しまれた両皇大神社は、近世・近代の大東市域の発展の礎を築いた深野池の新田再発の歴史を物語る貴重な文化財といえます。
【石灯籠】
フェンスに囲まれた石灯籠があります。これは文久年間(1861年~1863年)に深野新田の東部にある太光田(北条一丁目)に当社の分灯として建立されていたもので、平成15年に当地に移設されました。
【鳥居】
【神輿庫】
社殿
公園の中に玉垣で囲まれた境内域がありますがお詣り出来ないように通常は門扉が閉まっています。
【社号標】
【手水舎】
【社殿】
明治5年に村社となる以前は、「神明社」と呼ばれ、当時の扁額が残されているそうです。
【拝殿】
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