大阪城公園内の本丸南側に鎮座する豊國神社(読み方は“ほうこくじんじゃ”)です。「豊臣秀吉」「豊臣秀頼」「豊臣秀長」を御祭神とし、出世開運祈願の神として知られる神社です。大阪城跡は、有名な石山合戦にて石山本願寺の宗徒が11年にも渡り、織田信長の猛攻に対抗し続けた場所です。信長が攻略をあきらめ、和睦を結ぶに至ったほど要害堅固な土地であったことから、秀吉は天下を平定し居城を築くにあたってこの地を選んだといいます。
もとは明治12年(1879)、明治天皇の勅令によって中之島字山崎の鼻(現在の中央公会堂の地点)に、京都の豊國神社の別社として建立されました。その後、中之島図書館近くに移された後、昭和36年(1961)に現在の場所に奉遷。
周辺マップと路線経路
大阪城周辺
【外堀】
青屋門(あおやもん)
【青屋門 解説板】
青屋門
青屋門(あおやもん)解説板より
青屋口は大阪城二の丸の北に位置する出入口で、青屋門はその枡形【ますがた】 の内側に建つ。創建は徳川幕府による大坂城再築工事が開始された元和6年(1620) ごろと考えられ、明治維新の大火によって被災し、その後陸軍によって改築されたものの、昭和20年 (1945) の空襲で再び大破した。 昭和44年(1969)、大阪市が残材を用いて再建したのが現在の門である。現状は上部に櫓 【やぐら】を乗せる独立した櫓門だが、 江戸時代には上部の櫓部分がさらに北西の石垣沿いに長く延びていた。枡形とは敵の侵入を防ぐための四角い区画のことで、青屋口の枡形は、二の丸の他の各口とは異なり外側に突き出す出枡形【でますがた】だっ
た。さらにその外側はかつて水堀となっていて、橋が架かっていた。この橋は押し出し引き入れ自在のいわゆる算盤橋【そろばんばし】で、非常時以外は引き入れたままになっていた。「青屋」の名については、戦国時代この地にあった大坂 (石山) 本願寺の寺内町「青屋町に由来すると考えられている。
内堀周辺の様子
内堀から見える大阪城。
【内堀の様子 動画8秒】
【極楽橋】
極楽橋から撮影。舟が浮かぶ。
秀頼・淀殿ら自刃の地
秀頼・淀殿ら自刃の地
秀頼・淀殿ら自刃の地案内より
慶長20年(元和元年、1615) の大坂夏の陣では、旧暦の5月8日、徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母淀殿が、山里丸にあった櫓にひそみ、自害したと多くの記録が伝えている。
それにちなんで平成9年(1997) 現在の山里丸の一画に大阪市の手によりこの記念碑が建てられた。
大阪城
大阪城といえば豊臣秀吉を想い出します。それより以前は、織田信長を相手に十一年もの間、頑強に戦いつづけた石山本願寺がありました。秀吉の大坂築城はその本願寺の遺構を利用することからはじめ、次第にこれを拡大強化して、ついに三国無双と謳われた難攻不落の名城に仕上げたました。
桜門枡形の巨石
大阪城の見どころは巨石をふんだんに使った壮大な石垣です。よくこれだけ沢山の大きな石が集められたものと感心します。なかでもこの桜門枡形の巨石は見る者の眼を奪うほどの大きさです。
【桜門枡形の巨石 解説板】
桜門枡形の巨石
桜門の内側には、本丸の正面入口を守るため、石垣で四角く囲まれた「枡形」とよばれる区画が設けられ、上部に多聞櫓【たもんやぐら】が建てられた。この枡形は、徳川幕府による大坂城再築工事の第2期工事が始まった寛永元年(1624)、備前岡山藩主池田忠雄【いけだただお】の担当によって築かれ、石材は備前(岡山県)産の花崗岩【かこうがん】が用いられている。正面の石は蛸石【たこいし】とよばれる城内第1位の巨石で、表面積がおよそ36畳敷 (59.43平方メートル)、重量は約108トンと推定される。向かって左手の巨石は振袖石【ふりそでいし】 (袖石【そでいし】)とよばれ、表面積はおよそ33畳敷(53.85平方メートル) で、城内第3位である。なお、上部の多聞櫓は慶応4年(明治元年、1868)、明治維新の大火で焼失した。
重要文化財 桜門
【桜門 解説板】
重要文化財 桜門
桜門 解説より
本丸の正門にあたる。徳川幕府による大坂城再築工事が行われていた寛永3年(1626)に創建されたが、慶応4年(明治元年、1868)に起きた明治維新の大火によって焼失し、 明治20年(1887) に陸軍が再建し現在に至る。左右の塀も桜門再建にあわせて新築されたが、戦後に台風の被害を受けて倒壊し、昭和44年(1969)に復元されている。桜門の名称は豊臣秀吉が築いた大坂城以来のもので、当時二の丸に桜の馬場とよばれる場所があったことから、門付近に植えられた桜並木にちなんで命名されたと考えられる。ただし豊臣時代の大坂城は、徳川幕府再築の今の大坂城とは地形や構造が大きく異なり、桜門を含む本丸への入口は現在よりも西にあり、入る方向も違っていた。なお門の両脇に見える巨石は龍虎石【りゅうこいし】と呼ばれ、江戸時代には、雨が降ると右に龍の姿が、左に虎の姿がそれぞれ現れるといわれた。
豊國神社 入口
【表鳥居】
【社号標】
若永神社の入口(鳥居)がありますが、こちらからは入れません。
【手水舎】
【結婚式場】
【豊臣秀吉公像】
高さ5.2メートル、平成19年、境内に建立された豊臣秀吉公像です。製作は日本芸術院会員・文化功労者の中村晋也氏によるものです。軍配に、陣羽織、具足を身に着け、彼方を見据える姿。
【二の鳥居】
明治三十八年四月と刻まれています。
社務所の横に短冊掛けがあります。
【みくじ掛け】
摂社と若永神社
境内の左側には白玉神社・七夕神社・玉春神社・玉繁神社と若永神社の社殿が並びます。
【宝物庫】
豊國神社の扁額があります。
バラバラになった古い灯籠。
社殿前の様子。
【白玉神社・七夕神社・玉春神社・玉繁神社】
【七夕神社 案内板】
【白玉神社 】
案内板より
大阪市北区中之島のあった某藩蔵屋敷に白玉稲荷神社として祀られておりましたが、蔵屋敷解体に伴い、そこで仲士頭として働いておりました野崎喜三郎という人が、東区淡路町の自宅に一時移して祀っておりましたが、明治十二年、中之島に豊國神社が創建され、野崎氏は「元々祀られていた中之島にお帰りになられた方がよい」と申し出があり、明治十四年十二月に豊國神社境内に遷座されたと伝わります。
ご祭神は、宇迦之御霊神
五穀豊穣・商売繁盛とされ、農業や商工業の神として多くの崇敬を集めております。
【七夕神社】
当時の大阪市北区此花町二丁目(現在の北区東天満 大阪市立堀川小学校のあたり)に「無格社 七夕稲荷神社」として祀られており、明治のいわゆる「神社合祀」の政策により、明治四十年十月に白玉神社と合祀されたと伝わっております。
ご祭神は稚日女尊・宇迦之御霊神
稚日女尊の「わかひるめ」は『若くてみずみずしい日の女神』という意味があり、天照大神の妹神とも和魂とも幼名とも言われており、機織りの神とされ、良縁成就・安産・芸事上達のご利益があるとされています。
【玉春神社・玉繁神社】
詳細は不明で、七夕神社と同じく、明治の「神社合祀」 政策によるものとされ、七夕神社とほぼ同時期に合祀されたと推測されます。
ご祭神は宇迦之御霊神と伝わっております。
【扁額】
【拝殿内】
【若永神社】
御祭神は宇迦之魂神です。
【若永神社 由来案内板】
若永神社の由来
若永神社 由来案内板
御祭神
宇迦之魂神
本神社は を遡る事四百年余前、豊臣秀吉公の御用商人であった現在の大阪市中央区淀屋橋南詰の豪商淀屋の屋敷内に、火難除けの御守護神として御鎮座された稲荷神社であります。以後、北浜高麗橋以西の多数の町内商家の方々の御信仰篤く御祀りされてきました。昭和二年八月五日大阪市の都市計画と地下鉄御堂筋線工事の為、当初大阪市庁舎東の豊國神社境内に遷座され、其の後市庁舎増築に伴い昭和三十六年一月十八日に豊國神社が当大阪城内に遷宮の際、現在地に御遷座されました。
現在も淀屋の末裔の方や、当時の町内の末裔の方々をはじめ、多くの人々の信仰を集めています。
御祭礼
毎月 一の午の日 月次祭
三月 一の午の日 初午大祭
今から四百年余前、豊臣秀吉公の御用商人であった豪商「淀屋」の屋敷内に火難除けの御守護神として御鎮座された稲荷神社です。
大阪市都市計画の地下鉄御堂筋線工事のため、昭和2年に大阪市庁社東の豊國神社境内に遷座され、その後昭和36年1月に豊國神社が当大阪城内に遷宮の際にこの地に御遷座されました。
【七夕神社周辺 動画17秒】
豊國神社 社殿
【狛犬 阿形】
【狛犬 吽形】
【社殿】
御祭神は豊臣秀吉公、豊臣秀頼公、豊臣秀長卿です。
明治元年、明治天皇が大阪へ行幸された際に、多大なる功労を残した豊臣秀吉公を大阪の清らかな地に奉祀するよう仰せになったことから、明治6年に京都の阿弥院峯墓前を本社として社殿を造営しました。大阪には別格官幣社豊國神社の別社として、明治13年に中之島字山崎の鼻(現在の中央公会堂の地点)に創立されました。その後、中央公会堂建設のための移転を経て、昭和36年1月に現在地へ奉遷いたしました。
【拝殿】
【絵馬掛け】
【本殿】
境内の様子
【宝物庫】
【秀石庭 案内板】
秀石庭
昭和四十七年十二月三日京都林泉協会
大阪城は元石山本願寺のあった場所、石山をテーマとして巨石を組みかつ日本庭園の伝統の中に石山と蓬莱山を同時に構成されている。
又、神社庭園の発祥が磐座・磐境にあり石を神格にすることに神社庭園の意味があるので、七五三に石を配した石庭となっている。豊國神社のご祭神、豊臣秀吉公愛用の馬印瓢箪を地割模様とし又観賞用石舞台の地紋にも瓢箪が画がかれている。
本庭の石は阿波(徳島県)産の緑泥片岩であって設計者、重森三玲氏が会心の作を設計されるときの為に特に保存せられてあった巨石である。
四十周年記念として奉納されたものである
【秀石庭】
本庭園は、昭和を代表する作庭家、重森三玲氏の設計指導のもと造られた庭園です。秀吉公の「秀」と大阪城地の古名である石山の「石」を取り「秀石庭」と命名され、「秀吉公の豪健な庭園」という意味が込められています。
【太閤の「醍醐の桜」の案内】
太閤の「醍醐の桜」
平成二十六年 十二月吉日 大阪観光ボランティアガイド協会会員有志一同
豊臣秀吉が慶長三年(一五九八)四月二十日に行った「醍醐の花見」。世界文化遺産 京都・醍醐寺、三宝院玄関前の大しだれ桜は樹齢百六十年を迎えるが、近年、住友林業㈱の先進のバイオ技術により、そのDNAの継承が可能となった。
この度、住友林業・豊国神社のご厚意を得て、大坂の陣四百年を記念し、ここ太閤ゆかりの地に植樹できる運びとなった。
十年後、二十年後、年を経て、大きく枝を広げたこの桜に、訪れた人々が「太閤さんの夢」を感じていただければ幸いである。
【太閤の「醍醐の桜」①】
【太閤の「醍醐の桜」②】
【笹の小径】
【笹の小径 動画25秒】
【刻々に大秋晴となる如し 爽雨】
【解説板】
刻々に大秋晴となる如し 爽雨
関西雪解会
皆吉爽雨は明治三十五年福井県に生まれ、夙に大阪に出てホトトギスにより高浜虚子に学び、俳誌旧「山茶花」の選者をつとむ。
昭和二十一年東京に居を移し俳誌「雪解」を創刊主宰す。
昭和五十四年多年俳壇に尽くせし功により訓四等旭日章、を受賞、俳人協会副会長。昭和五十八年六月二十九日没
東側の出入口
大きな燈籠があります。
【社号標】
裏側(東側)の鳥居
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