苅屋姫が蹉跎(あしづりすること)して悲しまれた事で、旧跡を蹉跎と名づけられたのが由来。
枚方市 南中振 蹉跎神社(さだじんじゃ)

大阪の神社

創建は天暦五年(九五一年)
蹉跎山に社殿を造営し、木像を祀り、近隣二十五箇村の産土神うぶすなのかみとしたのが当社の始まりと社伝に伝えられる。
御祭神は菅原道真公。平安時代の学者で宇多天皇の信任が厚く、右大臣に昇られましたが、延喜元年(九〇一年)京の都から九州の大宰府に御左遷を命ぜられた。その道中にこの地で休息され、塚の上から遥かに京の都を望み、名残を惜しまれた後、西に旅立たれた。
都に残された菅公が特に可愛がっておらた苅谷姫が、父の御後をしたって中振のこの地まで来られましたが、既に出発した後で逢えませんでした。菅公が都を眺めたという塚の上に立ち、西を望み、足摺り(さだ)して悲しまれたので、その後、いつとはなしに、この辺りは「蹉跎」といわれ、蹉跎山・蹉跎川・蹉跎池の名がつきました。
その後、道真公がご自身の三尺二寸のご座像をお手づからつくられたものを、村人たちが当山に社殿を造営し、近郷二十有五個村の産土神(うぶずなかみ)としてお祀りしました。
その後、慶長十九年(一六一四年)の大坂冬の陣で兵乱に社殿は炎焼しましたが、ご神像のみ無事であったため現在地に遷座して社殿を再建し、中振・出口の両村の産土神として奉祀されています。

【足摺り(あしずり)】
地にすりつけるように足踏みをすること。じだんだを踏むこと。また、激しい悲しみや怒りを表す動作。
【蹉跎(さだ)】
つまずいて、進むことができないこと。転じて、不遇で志を遂げられないこと。機会を失うこと。また、そのさま。

蹉跎神社の基本情報

【神社名】
蹉跎神社さだじんじゃ蹉跎天満宮さだてんまんぐう、天神さん

【鎮座地】
〒573-0094
大阪府枚方市南中振おおさかふひらかたしみなみなかぶり1-7-18

【御祭神】
菅原道真公すがわらのみちざねこう

【境内神社】
皇大神宮社 春彦神社 金比羅神社 稲荷神社

【祭日】
春祭    四月十五日
例大祭   十月十五日
節分祭   二月三日

周辺マップと路線経路

画像出典:© OpenStreetMap contributors

蹉跎神社 参道入口

蹉跎神社までの参道入口。住宅街を通っていきます。
ここから神社の入口までを蹉跎参道と言います。

橋の名残

【一の鳥居】

一の鳥居をくぐり、蹉跎参道の坂道を歩く。

【蹉跎参道の標識】

蹉跎神社入口の周辺

【社務所】

何かの蔵。詳細は不明。

蔵の前に石碑。

【蹉跎神社由緒書】

蹉跎さだ神社 由来略記
祭神 菅原道真公すがわらのみちざねこう
創立年代 天歴てんれき五年(九五一)
由緒
当社は延喜元年(九〇一年)正月菅公が大宰権師だざいのごんのそつとして九州は筑紫の大宰府へ御左遷の途中此山にて暫時御休息あり遥に京の都を望み深く名残りを惜しみて西へ旅立たれり此の休息ありし山を菅相塚と称ふ然る都に残られし御公達の中にも御寵愛深かりし刈屋姫の君御別れを惜まれ御跡を慕ひて此地にならせられしが遂に及ばずして遥に西天を望み蹉跎して悲嘆せらる其旧跡を蹉跎山と名づく菅公は御丈三尺二寸の御坐像を配所にて御手づから作らせ給ひしを村人らが当山に社殿を造営し近郷二十有五個村の産土神うぶすなのかみ「総社」として斎き祀りしが慶長十九年(一六一四年)の兵乱に社殿は炎燃したれども御神像のみは厳然と坐せまししかば再建せられ中振・出口両村の産土神として奉祀せられる創建より幾多の変遷を経て明治五年より郷社に列せられ翌六年二月堺県より祠官を派遣し爾後社職を欠かさず明治二十二年三月社殿を改築し以て今日に至れり。御旅所 枚方市大字出口にあり

【手水舎】

【二の鳥居】

鳥居から続く石段(参道)

蹉跎さだ神社(龍光寺跡)
社伝によると、菅原道真が京から大宰府だざいふへ向かう途中、この山でしばらく休息したが、娘の刈屋姫かりやひめが別れを惜しんでここまで追いかけてきたところ、すでに道真は出立したあとだった。娘は足摺り(蹉跎)してなげき悲しんだため、この地を蹉跎と呼び、のちに娘の悲しみを知った道真は、自ら木像を彫刻して送り与え、これを祀ったのが当社の起源という。
現在、社務所の建つ位置には、かつて龍光寺が建っていた。寺伝では聖徳太子の開創としており、延暦えんりゃく四年(七八五)に焼失、その後、幾多の盛衰を経たのち蹉跎神社の宮寺として明治元年(一八六八)の神仏分離まで存続したが、明治六年に廃寺となり、本尊ほか寺宝は南隣の浄土院へ移された。境内からは、奈良時代前期に属する軒丸瓦のきまるかわらや「□光寺」と刻印のある文字瓦が採集されている。

令和四年(二〇二二)六月 枚方市

繪馬堂の門

額には「蹉跎天満宮」とある。

門の前には狛犬。

【狛犬 阿形】

【狛犬 吽形】

【腕用ポンプ】
蹉跎村と書かれている。

消防のうつりかわり
今から三〇〇有余年前、江戸時代の正徳享保年間に大名火消及び町火消の制度が定められたのが消防の始めとされています。それから年月が流れ明治三年に江戸から引き継いで東京の消防に当った町火消を指揮監督するため東京府に消防局が儲けられ、この時町火消を消防組に改組し指揮監督の権限は警察に移された明治大正から昭和の初期までの消防の移り変りと発展は著しいものがありました。
特に昭和十二年に「防空法」が制定され同時に消防組と防護団を強力な警防組織を儲ける為に内務省は昭和十四年一月勅令警防団令を公布し、四月一日全国一斉に新たに警防団の発足となりました。第二次世界大戦の終戦と共に警防団はその戦時的任務を終了し昭和二十二年十二月に消防組織法が制定され、昭和二十三年三月新たな消防団令が公布されて全国の市町村に自主的民主的な消防団が組織されました。この間、枚方市に於ても昭和二十一年四月大阪府枚方消防署を開設すると共に昭和二十二年八月には枚方町が市政施行同年九月一日に枚方市消防団として新たな組織が発足され消防署と連繋が更に密にされた。又、昭和三十年十月枚方市に津田町の編入に伴ない枚方市消防団は充実されたものであります其の後消防ポンプ車の購入など近代的な装備の増強の中で枚方寝屋川消防組合と共に市民の生命財産の保金奉仕と犠牲の精神で日夜邁進しております。其の遠い昔から消防の職に殉じられた数多くの消防職員及び消防団員の御冥福をお祈り申し上げますと共に地元区長会自治会婦人会子供会其の他の組織を生かして自主防災に御協力して頂いております皆様に深く感謝の意を表します。

昭和五十七年十月吉日

腕用ポンプ半鐘
江戸時代の消防は破壊消防が主体であった。忽論、水を以ってする消火消防も、とられていたがその時のポンプとして龍吐水型雲龍水型など当時としては最新鋭のポンプで、明治になっても継承されていた龍吐水型は俗に水鉄砲である。雲龍水型はポンプ自体に水槽をつけたものであって龍吐水型を改良され出来たもので明治初期になるとイギリス、ドイツ、フランスなどから、洋式ポンプが導入され明治九年には、国産腕用ポンプが量産され、この当時の性能は吸水量一分間に一石五斗から三石五斗(二七〇㍑~六三〇㍑)で放水の高さ十五間(約二十七m)で価格は型によって違うが四百円前後であったという。このポンプは旧蹉跎村消防組で使用されていたもので明治、大正と昭和十五年前後まで当地区内は勿論、遠く寝屋川、枚方の火災現場まで高張堤灯を先頭に手引で行き、火災が鎮火するまで何時間でもワッショイワッショイと頑張って消火されたと当時の関係者から聞き本当にご苦労様でした。
又、この上に釣ってあります半鐘も約百年間皆様方に火事の通報風水害の避難警報其の他数多く私達の為に大変役立って今日にいたりました。
この度、消防百年祭並びに市制三十五周年を記念し腕用ポンプ半鐘器具を大切に保存するものです。

昭和五十七年十月吉日

【絵馬堂の絵馬】

こちらの鐘は約百年間、地域の火事、風水害の避難警報などに大変役立ってきたとの事。

絵馬堂の門をぬけると、さらに続く石段。

この門をくぐると境内。

【神楽堂】

境内神社 稲荷神社

【御祭神】倉稲魂命 猿田彦命 大宮女命

境内神社 春彦神社

【御祭神】春彦命 市寸島毘売尊 木花佐久夜売尊

境内神社 金毘羅神社

【御祭神】 大物主命 崇徳院天皇

境内神社 皇大神宮社

【御祭神】 天照大御神

蹉跎神社 社殿

【狛犬 阿形】

【狛犬 吽形】

【拝殿】

【拝殿内の様子】

裏側にも出入り口がある。

【遥拝所】

【本殿横にある神輿倉】

【神牛舎】

【神牛】

蹉跎神社の道標

蹉跎神社の一の鳥居から京阪電車踏切を渡ってすぐにある。

蹉跎神社の道標
〒573-0094大阪府枚方市南中振2丁目8−62

蹉跎神社(蹉跎天満宮)遥拝所(御旅所)

蹉跎神社から一キロほど離れた枚方市出口5丁目に蹉跎神社の遥拝所(御旅所)がある。敷地内には出口自治会館がある。

【鳥居】

【社号標】

額には梅の神紋に「天満宮」とある。

蹉跎神社さだじんじゃ 御旅所おたびしょ(境内地)
この地は蹉跎天満宮さだてんまんぐうお神輿みこし例大祭れいたいさいにおわたりのある御旅所おたびしょと呼ばれるところ本宮もとみや遥拝ようはいする神社の神域しんいきであります。

蹉跎神社社務所

【遥拝所】

蹉跎神社(蹉跎天満宮)遥拝所(御旅所)
〒573-0065 大阪府枚方市出口5丁目13−14

Googleマップ蹉跎神社(蹉跎天満宮)

蹉跎神社(蹉跎天満宮) 072-831-1550
Google マップ

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