守口市 佐太中町 佐太天神宮(さたてんじんぐう)

大阪の神社

佐太天神宮の基本情報

【神社名】
佐太天神宮さたてんじんぐう 佐太神社さだじんじゃ

【鎮座地】
〒570-0002大阪府守口市佐太中町おおさかふもりぐちしさたなかまち7-16-25

【御祭神】
菅原道真公すがわらのみちざねこう

【摂末社】
戎社 佐太えびす 戎大神、告文天満宮、火乃迦具土神ひのかぐつち
白太夫社 白太夫之命しらだゆうのみこと
愛宕社 火産霊神ほのかぐつちのかみ
稲荷社 宇迦之御魂大神うかのみたまのかみ

周辺マップと路線経路

画像出典:© OpenStreetMap contributors

入口(参道)

【社号標】

【東海道五十七次 間宿・佐太(あいのしゅく・さた)】

東海道五十七次 間宿・佐太(あいのしゅく・さた)
淀川を行き交った三十石船と陸路京街道の旅人で賑わった地
佐太は学問の神様で知られる菅原道真公ゆかりの地で、天暦年間(947~957)に祠(ほこら)が建てられたのが佐太天神宮の創建と伝えられています。
江戸時代には、枚方宿と守口宿の間の休憩所として「間宿・佐太(あいのしゅく・さた)」が幕府に認められ、宿泊は禁じられていましたが旅人の憩の地として賑わいました。
佐太天神宮前の佐太港(舟着場)は淀川三十石船の乗客や大坂の人々の佐太詣(さたもうで)にも利用され、上り下りの三十石船の乗客は、船上で手を合わせ佐太天神宮にお参りしました。
間宿佐太は石清水八幡宮ともゆかりが深く、来迎寺、管相寺、段蔵など歴史的な景観が多く点在しています。
石垣と竹藪に往時の面影を残す譜代大名永井氏の「佐太陣屋」は、加納藩の大坂蔵屋敷と台所の役割を担い、年貢米の納入、特産物の集積、大坂町人への売りさばき、金融や物資の調達などが行われ、往時の賑わいが偲ばれます。

守口門真歴史街道推進協議会

【参道】

【参道の途中にある鳥居】

参道途中の切り株

【明治天皇駐輦遺趾(めいじてんのうちゅうれんいし)】

一八六八年(明治元年)三月二十二日、明治天皇は京都から大阪へ行幸の途中、佐太天神宮で休憩されたとのこと。

【神門(石門)】

慶安元年(1648年)に淀屋重當の資金によって永井尚政が再建。門柱と冠木が石で造られている珍しい門。

【南側の門】

この神社は、菅原道真公が左遷で太宰府へ流される途中、荘園であった当地に滞在された時、自作の木像や自画像を残されたと伝えられています。道真公の死後五十年の天暦年間(九四七~九五七)に、道真公を慕って祠を建てられたのが当社の創建であると伝えられ、室町期には大庭庄の惣社として崇敬されるようになりました。現在の社殿は永井尚政・尚庸父子や淀屋辰五郎等の手厚い保護や支援を受けて整備され、江戸時代初期の重要な建造物と言われています。
 当社には室町時代文安三年(一四四六)の箱書のある「天神縁起絵巻」六巻のほか、永井公より寄進をうけた狩野探幽の十一面観音画像をはじめ後水尾上皇を中心に当時の宮廷をとりまく皇族・公卿・画家・学者・高僧等の江戸初期の美術作品が多く奉納されています。
 また大和守安定の作刀になる刀とその拵である金梨子地塗糸太刀拵は、江戸初期寛文十年(一六七〇)の銘があり安定の作品中でも大作に属する貴重なものとして大阪府指定有形文化財となっています。

守口市教育委員会

南門 – 宝暦3年(1753年)再建。

境内の様子

【手水舎】

【豪商淀屋寄進の石井筒】

【石井筒の解説板】

豪商淀屋寄進の石井筒

奉寄進
佐太宮御寶前 
石井筒
慶安三庚寅年
二月廿五日
願主 淀屋右衛門

石井筒にはこのように刻まれており、慶安三年(一六五〇)二月二十五日 淀屋四代目三郎右衛門重當によって寄進されたことがわかります。
さらに重當は淀城主永井尚政による慶安元年(一六四八)の拝殿造営にも願主となって協力しています。
また、重當の叔父 石清水八幡宮萩の坊 乗圓は永井尚政の要請により三十六歌仙像を描くとともに連歌用文台を寄進しています。
そして明暦二年(一六五六)の連歌資料では、連衆として永井尚政や正盛とともに
重當および重當の叔父 仙甫が名を連ねています。

淀屋研究会

【神牛舎】

【神牛舎】

すぐとなりにも牛舎がある。

【筆塚】

筆塚の字は当時の文部大臣森喜朗によるものとのこと。

【偲び草 石碑】

佐太は未だ寝ぬ時雨かな  蕪村

偲び草
この碑文は蕪村が丹波から故郷毛馬に帰る途次時雨降る淀川の夜舟から見た佐太村の情景で自然を静観し人間的な暖かさを謳う俳聖蕪村翁の文人画家としての面目躍如たるものがある。
われら有志は由緒深きここに碑を建て衆とともに永く翁を偲ぶ機縁としたい。

蕪村略歴
蕪村は享保元年西暦一七一六年摂津国毛馬村に生る。若き日江戸に下り以来下総津軽地方を遍歴。
宝暦四年丹後宮津に住み姓を与謝と改め自然と中国の画本を友に作句と画業に専念。天明三年十二月二十五日西暦一七八三年 六十八歳で没す。

偲び草石碑より

【菅公水鏡の池】


道真公が当地に滞在の折、この池に自分の姿を写し、自画像を描いたといわれている。

池の中に島がある。

謎の石碑。

本殿

【狛犬 阿形】

【狛犬 吽形】

【本殿】

本殿は、寛永十七年(一六四〇年)に淀屋重當の資金によって淀藩主永井尚政が再建。本殿は一間社春日造であり、正面に軒唐破風が付けられている。

寛永十七年(一六四〇年)に神社が再興してから天和三年(一六八三年)まで、計九回の屋根替したことが棟札によって確認されているそうです。

本殿後ろから撮影。

摂末社

【佐太えびす】

戎社 御祭神 戎大神(えびすおおかみ)

【佐太の戎さんの像】

明和2年(1765年)建立。1986年(昭和61年)に兵庫県西宮市の西宮神社から戎大神を勧請して祀り、戎社に改めて以来、「佐太えびす」として有名。

【白太夫社(しらだゆうしゃ)】

御祭神 白太夫(しらだゆう)。
明和2年(1765年)建立。

【御旅社(おたびしょ)】

1969年(昭和44年)建立。

【愛宕社(あたごしゃ)】

御祭神 火産霊神(ほのかぐつちのかみ)。寛保2年(1742年)建立。

【稲荷社(いなりしゃ)】

御祭神 宇迦之御魂大神(うかのみたまのかみ)。
元文2年(1737年)建立。

境内の樹木

【保存樹林等指定標識】

この樹林は、佐太天神宮の社叢林(しゃそうりん)として、受け継がれてきた貴重な樹林です。百本を越える大木で構成され、明治天皇駐輦記念植樹や、守口市制三十周年の記念植樹なども樹林の一部となっています。その中で、古いものになると、樹齢400年を超えると推測されています。

守口市

【子宝の樹】

Googleマップ 佐太天神宮

佐太天神宮
佐太天神宮 · 〒570-0002 大阪府守口市佐太中町7丁目16−25
★★★★☆ · 神社

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