三光神社はJR大阪環状線、大阪メトロ長堀鶴見緑地線の玉造駅から徒歩2~4分ほど、大阪市天王寺区の宰相山公園に鎮座される神社です。御祭神は天照大神、月読尊、素戔嗚尊です。大阪七福神の寿老人が祀られています。
かつてこの一帯には真田丸があったため、真田信繁ゆかりの地とされています。
反正天皇(古墳時代中ごろの5世紀前半)
の時代の創建と伝えられます。
創建以来、武内宿禰(景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代、第12代から第16代の各天皇に仕えたという伝説上の忠臣)の末裔の武川氏が神職として奉職し、現在は86代目と伝えられます。社伝によれば、寛文元年(1661年)に一旦現在地の西にある円珠庵(鎌八幡)の隣に遷座し、宝永3年に(1706年)に再び現在地に戻ったそうです。かつては「姫山神社」と称し、一帯は「姫の松原」と呼ばれていました。
周辺マップと路線経路
三光神社 入口
【鳥居】
玉造駅から徒歩約2分ほどで到着します。
【片柱の鳥居】
こちらの鳥居跡は第二次世界大戦の爆撃を受けて損傷し、片柱だけとなりました。戦後、鳥居を復興する際、悲惨な戦争を二度と繰り返すことのないようと、国家安泰平和祈願と刻まれています。
【社号標】
【御祭神 案内板】
文字が薄くなって読みにくくなっています。
三光宮と刻まれています。
【三光神社由緒略記】
創建は第十八代反正天皇の御宇にして
以後神職として、武内宿弥の苗裔たる
武川氏が八十六代に渉って奉仕された
当社は古来より日本全國で唯一の中風
病除の神として知られ崇敬車は全國に
存在し六月一日から七日まで祈願大祭
あり。
又七福神の一つ寿老神武内宿弥を祀り
毎月七日は大阪七福神巡りが盛んなり
此地はもと大坂城 の出城(偃月城)の在りし処にして慶長・元和の大坂合戦の頃、真田幸村 茲に陣し本城より此処に至るまで地下に暗道を設け今尚其のこん跡を本殿階下に止むるより世俗に真田山の三光と称するに至れり。
境内をはじめ宰相山公園一帯は櫻の名
所にて春は宰相山公園愛護会による三光さくら祭りあり。奉賛会のあゆみ
昭和五十六年五月吉日
昭和二十年六月一日の大空襲で社殿を
始め各種建物一切と同時に氏子全域が
被害を蒙り復興不可能の状態であった。
しかし戦後間もなく復興のための三光神社奉賛会を設立し第一期に本殿第二期に社務所第三期に拝殿第四期には本社正面大鳥居第五期に末社北参道大鳥
居等と奉賛会役員をはじめ氏子崇敬者
の総意と清き浄財により全て完成され
た。
【参道】
末社 稲荷神社 野見宿禰社 武内宿禰社
【末社 鳥居】
参道に入ってすぐ左側にあります。
【案内立札】
左が野見宿禰社(角力の神)、中央が武内宿禰社(長寿の神)、右が主守稲荷社です。
野見宿禰社
御祭神 野見宿禰。安政6年(1859年)7月に天満砂原屋敷の相撲場に勧請されたもので、1886年(明治19年)に当社境内に遷座しました。
武内宿禰社
御祭神 武内宿禰。社家・武川氏の祖神。長寿であったことから七福神のうちの寿老人と同一視され、大阪七福神(浪速七福神)の一つとなっています。
主守稲荷社
五穀豊穣、食物を司る神がお祀りされています。
こちらからも社殿へ上がれます。
境内の広場
【三光さくらの碑】
末社 仁徳天皇社
御祭神 仁徳天皇
三光神社 社殿
【狛犬 阿形】
【狛犬 吽形】
階段を上がると社殿があります。
【拝殿前の鳥居】
【社務所】
【手水舎】
【絵馬掛け】
【歌碑】
「願かける くくわんほどく 真田山 穴のあくまで 神をいのらん」
白縁斎
「子狐の かくれ貌なる 野菊かな」蕪村
「雉子なくや 宰相山の 朝ぼらけ」六々閑人
歌碑より
【三光神社奉賛會の碑】
三光神社奉賛會
遠く生駒金剛の連山を見はるかす景勝のこの地に永くその由緒ある三光神社の御門として誇っていた鳥居も過ぐる第二次世大戦の戦火を被りその柱のみをとどめた。われわれはこれに世界の平和と國家の安泰を祈願して残すこととする。
さらに今般有志が相寄り新たにこの鳥居を奉納し由緒ある三光の大宮の御門とする次第である。
昭和四十七年七月
【寿老神の像】
社殿境内にあります。寿老神の像。七福神に列せられる神様です。
【社殿】
中風(脳卒中の後遺症である半身不随、片麻痺、言語障害、手足の痺れ、麻痺)封じの神として有名な陸前国宮城郡青麻(現・宮城県仙台市宮城野区)の三光宮(現・青麻神社)を勧請したとの事です。1882年(明治15年)の『大阪名所独案内』に三光宮を勧請した旨が書かれており、勧請はそれ以前ということになります。1908年(明治41年)、姫山神社に境内社・三光宮を合祀し、社名を「三光神社」としました。三柱の神をお祀りすることから「三柱神社」とも、「日月山神社」とも呼ばれました。
【東の鳥居】
真田幸村公銅像と真田の抜け穴跡
【真田幸村公銅像】
真田信繁
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。真田昌幸の次男で、真田幸村の名で広く知られています。
大阪の陣の活躍から「日本一の兵」と評される。
後世、そこから軍記物、講談、草双紙(絵本)などが創作され庶民に広く知られる存在になった。
【真田の抜け穴跡】
慶長19年の大阪冬の陣に備え、真田信繁(幸村)は弱点と考えた大阪城南方に築いた要塞が「真田丸」です。その時にこの抜け穴も築いたと伝えられます。
「真田の抜け穴」に関しては、諸説があり、真田信繁が作ったという説、徳川方が作ったという説などがあり、はっきりしたことはわかっていません。
信繁が作った説としては、大坂冬の陣の際に地下道を掘り、大阪城との連絡用に使ったというもの、また、この穴を通って敵に攻撃して穴に隠れるといった戦法として使ったという説です。
大きさは人が一人が通れるかどうかという大きさの穴です。柵には真田家の家紋である六文銭が見られます。六文銭(もしくは「六連銭」)は、冥銭を表しているといわれています。冥銭とは本来古代中国の習俗で、日本では亡くなった人を葬る時に棺に入れる六文の銭を意味し、三途の川の渡し賃のことです。これを旗印にすることは「不惜身命(身や命をささげて惜しまないこと)」を意味するといわれています。
【大きめの灯籠】
真田山陸軍墓地
階段を上がると小高い場所があり、広場があります。
【広場】
広場の西側に墓地があります。真田山陸軍墓地は三光神社裏手にある日本最古の大日本帝国陸軍の墓地です。
太平洋戦争終戦当時の規模を保つ点でも歴史的な価値があり、現在は公益財団法人真田山陸軍墓地維持会が維持・管理を行い、毎年10月に慰霊祭を開催しています。
【墓地の様子1】
天王寺区生まれの現代芸術家の森村泰昌は、大阪の名所を巡る旅を企画するなら到着地として陸軍墓地を選ぶといい、古く小さな「無数のオベリスクのような形の墓石が整然と並び立つ」墓地の光景と、周囲の新しく高級な「超高層マンションの巨大な真新しさとの間には、埋められぬ歴史の大きな溝」があるため、「墓地に吹く風は、どこかしら寂しげであり、またどこかしら平穏」な雰囲気を「私だけの宝物としてそっと心にしまっておきたい」お気に入りの場所と表現しています。
【墓地の様子2】
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