大阪市 大川(おおかわ)、旧淀川 天満橋、南天満公園周辺

大川(旧淀川)

一級河川、大川は明治43年に新淀川が開削されるまでは淀川の本流であった。天満橋は、明治時代には商都大阪の各河川を循環する巡航船の起点として、多くの人々で賑わったという。

天満橋駅周辺

天満橋から下流へ向け撮影。左側は京阪天満橋駅。

天満橋駅から撮影。屋形船がゆっくりとすすむ。

天満橋駅から上流方向へ撮影。

小楠公義戦之跡 石碑


南北朝時代の武将 楠木正成の嫡男 楠木正行(小楠公)は1347年(正平2年)11月26日、渡辺橋で山名時氏、細川顕氏軍と合戦し快勝。橋から大川に落ちた敵兵五百数十人を救出、寒天に凍りつくのを温め、衣食と薬を与えた。恩に感謝した敵兵は帰順し、翌年正月5日、正行が四条畷で戦死するとき全員共に討死する。正行は真に忠孝、友愛、仁義の人だ。まさに日本精神の化身である。明治の初めわが国が赤十字に加盟するおり欧米人はこの話を聞いて感動し、容易に加盟が認められた。

八軒家の歴史

江戸時代、天神橋と天満橋駅に挟まれた大川南岸が八軒家(はちけんや)と呼ばれた。八軒家には京都と大坂を結ぶ三十石船が発着する船着場があり、淀川における貨客輸送のターミナルであった。道沿いには旅籠や問屋が並び、船着場には旅人や運送にかかわる人々、客を呼び込む人たちの喧騒に包まれていた。そのようすは落語『三十石』や十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にいきいきと描かれている。
この地域は八軒家と呼ばれる以前には渡辺と呼ばれ、渡辺津を中心に平安時代から瀬戸内と淀川を結ぶ水上交通の拠点として栄えた。また、熊野三山への参拝道である熊野街道の起点でもあり、交通の要衝として古くから賑わいをみせるところであった。現在も船着場が整備され、「みち」と「かわ」を繋ぐ、水の都大阪の拠点として、賑わいをみせている。

渡辺津記念碑

南天満公園

水難に苦しんだ歴史。

南天満公園の将基島粗朶水制跡(しょうぎじまそだすいせいあと)碑

淀川(現在はは大川ですが元淀川でもあります。)治水の為に、オランダ人技術者ヨハニス・デ・レーケ、エッシェル、ティッセンに造られた寝屋川、・鯰江川との合流地点の逆流を防止するためにオランダ式の粗朶沈床による水制工を実施したとのことです。木の枝を束ね、石を詰め、河岸から河の中央に向って設置することで、水の勢いを弱め、護岸に効果のある工法(ケレップ水制)なのだとか。洪水の危険はほとんどニュースにならない大川だが、近年まで水難に苦しんだ歴史がわかる。

将基島は、淀川の水が寝屋川・鯖江川に逆流して水害を起こすのを防ぐために三つの河川の合流点の網島から天満橋を超えて236間(約430m)余り下流まで築かれた膈流堤で、幅7間(約13m)淀川治水のため、明治6年(1873年)に来日
したオランダ人技師 デ・レーケ、エッシェル、ティッセンの3人は、その翌年、将棊島地元にオランダ式の粗朶沈床による水制工を実施した、これは木の束を束ね、組み合わせたものに石を詰め、河岸から河の中央に向かって設置された突起物で、水の勢いを弱め、護岸に効果があったこの工法はケレップ水制とも呼ばれ、現在でも城北公園北側の淀川左岸にその名残を留める、デ・レーケは来日してから29年間大阪にとどまり、淀川の治水と大阪湾の建設に尽力した。

大阪市教育委員会

淀川三十石船舟唄歌碑

天満青物市場の対岸、現在の土佐堀通り沿いに八軒家船着場がありました。江戸時代の人々はここと京都を結ぶ三十石船で旅をしたり物資を運んだりしたとか。その頃歌われた歌が歌碑となって残っています。

天満の子守歌歌碑

『ねんねころいち天満の市よだいこ揃えて~』と歌われ、なつかしいなにわの歌として今も伝えられる天満の子守歌は、天満青物市場を歌ったもの。現代でも新しくアレンジしたりして歌われています。

天満青物市場跡碑

天神橋周辺

スロープは中之島へ降りる。ここは中之島の東側にあたる。

天神橋は骨組みがアーチになっていて美しい。

天神橋の下くぐると中之島公園

中之島公園の先端で川が二つに別れる。左へ流れるのが堂島川、右側へは土佐堀川。

天満橋周辺のGoogleマップ

指定した地点
34°41'28.4"N 135°30'57.1"E · 大阪府大阪市
大阪府大阪市

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