大阪市 城東区今福西 三郷橋稲荷大神(さんごうばしいなりじんじゃ)

大阪の神社

大阪市城東区今福1丁目。
蒲生四丁目から徒歩5分ほど、南に寝屋川が流れる住宅地の道沿いに鎮座する小さな神社です。由緒等については不明です。
この神社の角に大阪冬の陣激戦地の石碑と古代の当地の丸木船が発見されたことが載せられている解説看板があります。
御祭神は白瀧大明神、 岩國大明神、福丸大明神。

三郷橋稲荷神社の基本情報

【神社名】
三郷橋稲荷神社さんごうばしいなりじんじゃ

【鎮座地】
〒536-0004 大阪府大阪市城東区今福西おおさかふおおさかしじょうとうくいまふくにし1丁目14

【御祭神】
白瀧大明神しらたきだいみょうじん 岩國大明神いわくにだいみょうじん 福丸大明神ふくまるだいみょうじん

周辺マップ

画像出典:© OpenStreetMap contributors

三郷橋稲荷大神周辺

【大坂冬の陣 古戦場 今福 蒲生の戦い跡碑】

神社の角に石碑が建てられている。木村重成・後藤基次奮戦の跡地と書かれています。大阪冬の陣で、佐竹義宣、上杉景勝が、木村重成、後藤基次と戦った、激戦地だったそうです。

今福いまふく蒲生がもう 激戦地げきせんちの跡】

慶長十九年(一六一四)、大坂城攻撃のため、現在の天王寺、茶白山に本陣を置いた徳川家康の命により、今福・蒲生は秋田城主佐竹義宣、鴫野には米沢城主上杉景勝が、大軍の陣を置いた。
今福・蒲生と鴫野は大坂城の東北に位置している。旧大和川(一七〇四年に付け替えられ、現在は大阪市と堺市の境にある。)をはさんで佐竹軍は北側の今福・蒲生、上杉軍は南側の鴫野と、南北に布陣した。豊臣秀頼は大野治長に命じて三重の柵を造り、この地域を守っていた。
十一月二十六日未明、佐竹軍は今福・蒲生方面を攻め、上杉軍は鴫野の豊臣側の砦に向かった。双方ともに豊臣方と激突し大坂冬の陣最大の激戦となったのである。初戦徳川方が優勢で、まさに砦を攻め落とそうとしていた時、大坂城内より木村重成・後藤又兵衛基次が旗下の兵を指揮して駆け付けた。両勇将は先頭切って反撃し、破られた砦を取り返して勇猛に戦った結果、佐竹軍は死傷者続出。ついに佐竹義宣は鴫野の上杉軍に助けを求め、佐竹・上杉両軍が合流。ようやく豊臣方の追撃を食い止めることができたのである。
この今福・鴫野合戦では、両軍とも死傷者、数知れずであった。
当時、今福・蒲生一帯は水田や沼地で、戦いは堤や街道沿いで行われたと考えられる。当地は「東成郡誌」によると、旧鯰江川北岸、今福堤(野田・古堤街道)の上にある。

平成二十七年(二〇一五)三月吉日

今福いまふく丸木舟出土跡まるきぶねしゅつどあと

古代人が河内湖で水上交通に利用していたであろう丸木舟が出土している。

大正6年(一九一七年)五月七日、今福村(現在の今福西1丁目)の「鯰江川」(現在は埋め立てられて道路)の三郷閘門さんごうこうもん樋工事ひこうじのとき、当地の川底から、楠木の大木を半分に割ってくり抜いた大きな丸木舟(くり舟)が掘り出されました。
この丸木舟は 複材式の構造で大きさは長さ一三.四六メートル、幅一.八九メートル、深さ〇.八一八メートルと大型なものであり、古墳時代から奈良時代のものと推定されます。 
この出土した丸木舟は 昔このあたりが大阪湾の海水が流入する海(河内湾)から淀川・大和川の沖積作用ちゅうせきさようにより 次第に湖沼(河内湖)へと変わり 池や沼が点在していた頃、古代人が水上交通に用いていたものと思われます。 発掘された当初、舟は三郷橋さんごうばし(この地から南東約三〇メートルの地点にあったと思われる)の近くに置かれ、各地から弁当持参で 見物に来る人もあったそうです。その後昭和になって大阪城内に展示されましたが昭和二〇年(一九四五年)の空襲で残念ながら焼失しました。

平成二十七年三月 城東区役所

【狐の狛犬】

鳥居とお社

【鳥居】

【お社】

三郷橋稲荷大神Googleマップ

三郷橋稲荷大神
https://maps.app.goo.gl/pwb81szEBDKnna237

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