淀川の堤防沿い、淀川大橋のほど近く、西中島福村線沿いに鎮座します。JR宝塚線の塚本駅から徒歩約10分程度です。
由来は神功皇后が朝鮮半島へ遠征し帰りにこの地に立ち寄って、鼻川の地名を命名したとの伝説があります。なので、八坂神社系統で、主祭神として素戔嗚尊だけでなく神功皇后も並列されています。
また塚本駅すぐの場所に柏里西公園がありその一角には鼻川神社の御旅所があります。
路線経路と周辺マップ
鼻川神社 入口
【入口の様子】
【社号標】
社号標の横にある【記念碑】
【鳥居】
【地車庫】
【手水舎】
【手水鉢】
【社務所】
【参道】
【狛犬 阿形】
【狛犬 吽形】
【百度石】
【絵馬、みくじ掛け】
【社殿への石橋】
鼻川神社 社殿
【ご祭神 案内板】
【ご神木】
【社殿前の狛犬 阿形】
【狛犬 吽形】
【社殿】
【拝殿内】
素戔嗚尊と神功皇后の2柱がお祀りされています。
【賽銭箱】
【本殿】
現在の西淀川区花川の地はかつては、海老江新家とも称され、海老江村(現在の福島区海老江)の西北端に位置する枝村でした。鼻川神社はその鎮守社で、明治9年(1876)以前は八阪神社の名で祀られていました。
御祭神は本村海老江の八坂神社から勧請された素盞嗚尊と、神功皇后の二柱です。
【明治30年(1897年) 淀川改修工事で河川敷に】
淀川が海老江村を横切ることになり、海老江新家は本村と川を隔てて分断される。この時に鼻川神社の社地は新しい川の河川敷に当たり、明治30年に(1897)約90mほど離れた場所に仮社殿を建てて遷座します。
【明治43年(1910年) 姫嶋神社に合祀される】
明治39年(1906)の勅令により神社合祀政策が進められることになると、いまだ仮社地にあった鼻川神社はその対象となり、協議の末に隣村の稗島(姫島)と交渉、郷社姫嶋神社の境内末社として存続し、明治43年(1910)に出願、許可を得ました。
【大正13年(1924年) 姫嶋神社より独立】
ところが、なかなか移転は実行されず、移転がなされないまま数年を経た大正6年(1917)、20年前の淀川開削の際に内示のあった替地がようやく下げ渡される。ただし書類上は既に合併しているため、姫嶋神社名義での下付。
大正10年(1921)、姫嶋神社からの独立を請願するも却下となる。大正12年(1923)に再度独立を出願し、翌13年(1924)の8月、独立が認められ新たな土地に晴れて遷座することが決まりました。
【昭和9年(1934年) 社殿を再建】
社地の整備が地道に進められ、昭和9年(1934)に新しい社殿、現在のを鼻川神社を建立。
西成大橋 親柱
拝殿の左前に「西成大橋」と刻まれた石碑があります。
これは現在の淀川大橋が架けられる前に淀川に架けられていた西成大橋北詰の親柱との事です。
側面には「明治四十一年十二月竣工」「延長四百四間参分 高欄内法三間」背面には「大阪府」と大きく彫られています。
南詰の親柱は対岸の海老江八坂神社境内に保存されています。海老江八坂神社は鼻川神社祭神の勧請元ですが、川で分断されてしまった今も両社は南北の親柱で結ばれています。
左側の奥には稲荷神社が見えます。
鳥居の柱が片方だけ残っています。
こちらは上の部分ですかね。崩れてしまったのでしょうか。
【亀と出水鉢】
獅子(しし)と鯱(しゃち)の鬼瓦
狛犬ではなく獅子と鯱です。
陸運海運の流通の守り神として、陸の守り神である獅子と海の守り神である鯱だそうです。
獅子のほうには少し青い色が残っています。
鼻川神社には無言の神事という少し変わった神事が伝わっています。
10月18日におこなわれる祭式は、生臭・精進(海のもの・山のもの)の二種の膳を神前に供え祓詞・祝詞を口に出さずに黙読し、すべて無言のうちに執行されるというものとの事です。
末社 鼻川稲荷社
本殿の左手奥には境内社、鼻川稲荷社があります。
【狛狐】
【扁額】
【お社】
御祭神 孝元大明神(たかもとだいみょうじん)
商売繁盛・五穀豊穣のご利益があります。
稲荷社の裏側には古い狐たちが。
社殿の横(南側)にも鳥居がありますが、こちらの出入はできなくなっています。
【狛犬 阿形 吽形】
御朱印
Googleマップ 鼻川神社
鼻川神社御旅所(おたびしょ)
柏里西公園(柏里コミュニティー広場)内に鼻川神社御旅所があります。
広場の様子。
鼻川神社の提灯。
【鼻川神社御旅所 案内板】
【鼻川神社御旅所】
【御旅所の内部】
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