京都市 伏見区 淀本町 稲葉神社(いなばじんじゃ)

京都の神社

北に桂川、南に宇治川が流れる伏見区の淀本町。京阪電車の淀駅から徒歩数分、すぐ隣は與杼神社(よど神社)が鎮座されます。
稲葉氏の家祖で春日局の夫である『稲葉正成』が御祭神として祀られる神社です。
境内は淀城跡公園と繋がっています。淀城とは江戸時代に徳川秀忠の命により松平定綱が築いた城です。現在は淀城跡公園として整備されており、石垣や天守台が残っています。
小さく古い神社ですが、解説板をみるとその歴史は雄大です。史跡好きの方におすすめです。

稲葉神社の基本情報

【神社名】
稲葉神社いなばじんじゃ

【鎮座地】
〒613-0903
京都府京都市伏見区淀本町きょうとふきょうとしふしみくよどほんまち164

【御祭神】
稲葉佐渡守いなばさどのかみ 越智正成おちまさのり

路線経路と周辺マップ

画像出典:© OpenStreetMap contributors

稲葉神社の入口

参道

駐車場を挟んで右側には與杼神社の鳥居(入口)があります。

稲原神社の参道はやや荒れた感じがします。

社号標

淀城跡の石垣

この辺りは京阪電車からも見える。

鳥居

稲葉神社の祭神と淀藩について

稲葉神社の祭神と淀藩について
祭神稲葉正成公は、淀藩稲葉家の祖である。元亀二年(一五七一)に美濃国(岐阜県) 本巣郡十七条の城主、林家に生まれ、長じて稲葉重通の女婿となり、以後稲葉を称した。ところが、妻の死去により明智光秀の重臣斎藤利三の娘「福」を重通の養女として迎え再婚したのが、有名な「春日局かすがのつぼね」である。
正成は豊臣秀吉に仕えその命により、小早川秀秋の家老となり五万石を領した。
秀吉の没後、慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の合戦の功により徳川家康より感状を受け、のちに松平忠昌に仕えた。
その後、下野国 (栃木県) 真岡の城主となり、二万石を領したが寛永五年(一六二八) 江戸において没し、現龍院に葬られた。
稲葉家が淀藩主になったのは、初代正成より数えて、五代目の正知の時で享保八年(一七二三) 下総国(千葉県) 佐倉より十万二千石で入封した。
その後明治四年(一八七一) 十六代正邦の時に廃藩を迎
えるまで、 稲葉家が十二代百四十八年間にわたり淀藩主であった。

案内板より

稲葉氏時代の淀城下の図

手水舎

社務所

拝殿

本殿の正面に拝殿と思われる建物。通常は閉められているようです。

本殿

稲葉神社の由来

稲葉神社
御祭神は淀稲葉家の初代正成公をお祀りし歴代藩主の遺徳を偲ぶため、所緑の人達に、よって明治十七年(一八八四)に創建された正成公は元亀二年(一五七一)美濃国本巣部十七条の城主林家に生まれ、長じて稲葉重通の女婿となる。その後、明智光秀の重臣斎藤利三の娘、福(のちの春日局)と再婚し、ともに淀稲葉家の礎を築いた。
五代正知が享保八年(一七二三)下総佐倉より淀へ転封となり、以後、十二代にわたり淀の地を治めた。慶応四年(一八六八)の鳥羽伏見の戦いでは定も主戦場となり十六代正邦は老中として江戸で難局に対処する一方、家臣達は、藩主不在のなか難しい選択を迫られ結果、旧幕府軍新政府軍のいずれにも与しない中立の立場を貫いた。ここに先人たちへの思いを込めてこの神を刻む。
令和三年六月六日
稲葉家十九代、稲葉正輝

由来の碑より

狛犬 阿形

狛犬 吽形

本殿

御祭神


従五位下 佐渡守 稲葉正成公
御室 春日局

本殿の内部

稲荷社

以前は稲荷大明神・日吉大明神・熊野大神宮とあったそうですが、今はお社のみとなっています。

本殿の右側は與杼神社の境内と繋がっています。

神心石

淀城跡公園

淀城は、山城国久世郡淀、現在の京都府京都市伏見区淀本町にあった日本の城です。
現在は本丸の石垣と堀の一部が残っています。江戸時代には久松松平家、戸田氏、稲葉氏など譜代大名が居城。
穴蔵式の天守台跡、1623年築城、城郭は1625年にほぼ完成しました。
1626年には徳川秀忠と徳川家光が来城しているそうです。

淀城絵図

淀城は三川合流地(木津川・宇治川・桂川)の中州を干拓し、淀三町と呼ばれる城下町を形成していました。縄張りは本丸と二の丸を中心とした「回」字形に、三の丸、西の丸、東外には東曲輪が巨大な馬出曲輪が配されていた近世城郭である。築城にあたっては大坂城の縄張りが参考にされ、堀や門の取り付け方などは、当時の貿易国であったオランダ人からヨーロッパの築城技術が採り入れられたと考えられています。
北の納所(のうそ)地区と南西の美豆地区とは、淀小橋・淀大橋でつながれ、城下町の周囲は三川の水に囲まれ、河中の城で三面を川に囲まれた天然の要害で、中州自体が大きな水堀であり、古代中国の都城のような構造を持っていました。

淀町出身戦没者慰霊碑

淀城址の石碑

淀城は、宇治・桂川合流点と木津川に挟まれた島にあり、廃城となった伏見城に代り、京都警衛の拠点となりました。
元和9(1623)年松平定綱(1592~1651)が最初の城主、享保8(1723)年稲葉正知(1685~1729)が、下総佐倉より移封され明治維新に及ぶ。戊辰戦争時、幕府軍の宿泊所となり、慶応4(1868)年正月2日、この城から京都に向けて進軍した。5日には敗走の幕府軍の入城を拒んだ。この石標は淀城の跡を示すものです。

田辺治之助君記念碑

慶応四年(1868)、鳥羽伏見戦が勃発し、幕府方大坂方面へ敗走した。同5日敗軍は淀城の開門を迫ったが、藩士は城門ととざして入城を拒否した。物頭役、田辺治之助は大手門の守衛を指揮し,たまたま警衛を破り侵入した者があったので、藩主が朝敵の名を被らないようにその責任をとり自決した。
この碑は田辺治之助の志操を顕彰するもので、戊辰戦争勃発70年に建立されました。

明治天皇御駐蹕の碑

明治天皇(1852~1912)は、慶応四年(1868)3月21日親征・海軍検閲のため大坂行幸。同日この地淀城で休憩しました。
同月23日大坂行在所となった本願寺別院に到着し、1カ月余り大坂に滞在。4月7日大坂を出発。水路八軒屋より守口に上陸し、同日淀城で宿泊。翌日鳥羽で休憩後、京都へ還御。この石標は明治天皇行幸の地を示すものです。

遊歩道があります。

淀城 天守台

淀城の由来

淀城の由来
徳川二代将軍秀忠は、元和五年(一六一九)の伏見城の廃城に伴い、新たに桂川・宇治川・木津川の三川が合流する水陸の要所であるこの淀の地に松平越中守定綱に築城を命じて、元和九年(一六二三)に着工、寛永二年(一六二五)に竣工した。翌寛永三年、秀忠・家光父子が上洛の途次にはこの城を宿所としている。
寛永十年(一六三三)国替えにより永井尚政が城主となり、その後、諸大名が次々と入城したが享保八年(一七二三)五月、春日局かすがのつぼねの子孫である稲葉丹後守正知が下総しもふさ佐倉から淀へ移り、明治維新までの百数十年間、この淀城は稲葉氏十万二千石の居城であった。
江戸時代の淀城は周囲に二重三重の濠をめぐらし
「淀の川瀬の水車誰を待つやらくるくると」のうたで名高い水車は直径八メートルもあり城の西南と北の二カ所に取り付けられていた。
淀城とその城下町の盛親は延享五年(一七四八)五月二日に来着した朝鮮通信使(将軍への祝賀使節)の様相を写した「朝鮮聘礼使淀城着来図」に詳しく描かれている。
昭和六十二年夏に天守台の石垣解体修理に伴い、発掘調査が伏見城研究会によって行われ大小の礎石を含む石蔵が発見された。これは四隅に櫓を持つ白亜五層の
天守閣の地下室と基礎であり、宝暦六年(一七五六)の雷火で炎上する以前の雄姿を偲ばせるものである。
なお淀君ゆかりの淀城は現在の淀城跡ではなくこの位置から北方約五百メートルの納所にあったと推定されている。
京都市

案内板より

天守台へは柵があって上がれない。

すぐ横に階段がありました。

穴蔵式の天守台

柵に鍵があり内部には入れません。

柵の横からから撮影。

天守台周辺の動画30秒

遊歩道から堀が見下ろせます。

Googleマップ 稲葉神社

稲葉神社 · 〒613-0903 京都府京都市伏見区淀本町164 168
★★★★☆ · 神社

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