京阪電車牧野駅から徒歩5分ほど、近くに穂谷川が流れます。
社伝によれば、垂仁天皇(3世紀後半~4世紀前半ごろ)の時代に、出雲国の豪族である野見宿禰が、当麻蹴速との相撲に勝った恩賞として当地を拝領し、出雲の祖神である素盞嗚尊を祀り、一族の鎮守としたのに始まります。
「片埜」(片野、交野)はこの一帯の古名で、交野市の地名の由来でもあります。
平安中期、野見宿禰の後裔である菅原道真が天神として祀られるようになると、天徳4年(西暦960年)に当社も菅原道真が配祀された。社家の岡田家は野見宿禰の後裔とのことです。
延喜式神名帳では「河内国交野郡 片野神社 鍬靫」と記され、式内小社に列している。かつては広大な社地を有し、「交野の御野」「牧野の桜」と呼ばれる桜の名所として歌枕ともなっていたそうです。
“交野郡一宮”であって“河内国の一宮”ではなく、のちの豊臣秀頼による修復も、交野郡の一宮(牧野坂の片埜神社)、二宮(舟橋の二ノ宮神社)、三宮(穂谷の三ノ宮神社)を大阪城鬼門鎮護の神社として修復させたものです。
片埜神社は戦国時代の戦乱で荒廃しましたが、豊臣秀吉によって復興され、大坂城の鬼門の方角にあることから鬼門鎮護の社とされました。慶長7年(1602年)には、秀頼によって本殿、拝殿などの社殿が大造営された。そのうち本殿と南門が現存し、本殿は国の重要文化財に指定されています。
江戸時代までは「一宮牛頭天王」を正式名称としていましたが、明治時代にかつての「片埜神社」に戻されました。
周辺マップと路線経路
片埜神社 入口
【鳥居】
【社号標】
【南門】
大阪府指定文化財、俗称は赤門。
境内の様子
【手水舎】
【鬼の面】
「より強い鬼をもって外の鬼を制する」との信仰から、大きく口を開けた鬼の面が備えられています。大阪城の鬼門鎮守の社として豊臣秀吉によって定められ、鬼門を封じたことにより、その後の豊臣家の繁栄がもたらされたと言われています。また、絵馬や御朱印には鬼面が描かれており、節分の豆まきでは「鬼は内」と唱えるそうです。
【神牛】
【社務所】
【絵馬掛け】
【御祭神の案内板】
【片埜神社本殿 案内板】
片埜神社本殿
社伝では、古くから河内国交野郡の守護神として崇敬され、『延喜式』に記載されている交野郡二座のうちの一座であり、天正一一年(一五八三)豊臣秀吉が大坂城築城に際して、当社を鬼門鎮護の社として定めたといわれています。
現在の本殿は、残されている棟札によると、慶長七年(一六〇二)豊臣秀頼が片桐且元を総奉行に再建したものです。三間社流造、檜皮葺で、細部にいたるまで桃山時代の華麗な様式をよく示しており、国の重要文化財に指定されています。特に四面を飾る蟇股(かえるまた)の彫刻に当時の特色を見ることができ、向拝(こうはい)中央は竹に虎、右は芙蓉(ふよう)にせきれい、左は椿にひよどり、本殿正面は中央・左右とも牡丹、背面は中央に椿、左手にかきつばた、右に菊、東妻は太閤桐(たいこうぎり)、西妻は栗と、絵画的で精巧な彫刻がそろっていて見応えがあります。
境内の南門は本殿再建後、引き続いて造営されたもので、大阪府の有形文化財に指定されています。
二〇一八年 枚方市教育委員会
【皇大神宮遥拝所】
片埜神社 社殿
【狛犬 阿形】
【狛犬 吽形】
【社殿】
【神額】
【拝殿内】
【本殿】
桃山時代に豊臣秀頼により再建されました。三間社流造、檜皮葺。重要文化財。
【ご神木】
境内社 稲荷社(いなりしゃ)
保食神、武甕槌神、経津主神、天児屋根命、比咩大神、品陀和気命、久那戸神
【鳥居】
【社殿】
境内社 依姫社(よりひめしゃ)
【依姫社の立札】
依姫社
立札より
一、御祭神
玉依姫命
神武天皇様の御母君・下賀茂神社の神様
大国主命
大己貴命・出雲の大黒様・国土守護神
市寸嶋姫命
安芸宮島の大神・弁天様・芸能上達の神様
一、明治初期、境内の玉依姫神社・大国主神社・
市寸嶋姫神社それぞれのお社を依姫社に
合祀申し上げて今日に至る。
【社殿】
【拝殿】
片埜神社東門(府指定文化財)
境内から見た東門。
こちらは境外から見た東門。鳥居がある。
【東門の解説立札】
片埜神社東門(府指定文化財)
立札より
この門は棟門でした。棟門は平安、鎌倉時代の寺院の総門や大邸宅の表門に用いられ、「むなかど」とも呼ばれています。
左右にに円柱を立て、その上に水平に冠木が通り、梁の上にのせた蟇股の中ほどまで円柱が延びています。扉は桟唐戸を用います。
控柱を用いず築地塀に密着させて門柱をささえるので、地震や台風などで倒れる危険があり現存するものは数少なくなっています。
のちに改められて小型の四脚門となりましたが、室町時代の様式を伝承しており、府内でもこの時代としては数少ない遺構の一つす。
二〇一五年一月
枚方市教育委員会
【東門】
大阪府指定文化財、俗称は黒門。室町時代に作られたもの。
鎌倉時代に武家や僧侶の屋敷に使用された棟門で貴重な遺構です。
北門から牧野公園
北側にある門。門というか扉があり、抜けると牧野公園にでる。
【牧野公園の様子】
【牧野公園の看板】
【伝 阿弖流為 母禮之塚】
伝 阿弖流為 母禮之塚
説明書より
約一二〇〇年前、時の朝廷の国土統治にあたり、東北地方には蝦夷と呼ばれる人々がいてその支配を拒否していました。
このため朝廷は、彼らを辺境の人々として征討部隊を派遣しましたが、人々はこれに対し、激しい抵抗を繰り返し容易には屈しませんでした。
延暦二十一年(八〇二)四月、征夷大将軍坂上田村麻呂は蝦夷の首長アテルイと副将モレが同族五百余人を引き連れてようやく降伏したことを朝廷に報告し、七月、二人を伴って、帰京しました。二人の処遇について田村麻呂は強く助命を嘆願しましたが、八月、二人は河内国で処刑されました。
この地がアテルイとモレのゆかりの地とされています。
塚の右側へ回ると石碑がある。
神社若奥日記 岡田桃子著
【書籍】神社若奥日記―鳥居をくぐれば別世界境外社 朝原神社(あさはらじんしゃ)
片埜神社から東へ数分歩くと境外社の朝原神社、そこから消防署を挟んで境外社の瘡神社が鎮座する。御祭神は猿田彦大神
旅行安全・子孫繁栄の神とされる。
【朝原神社 立札】
朝原神社
立札より
天孫降臨の際、邇邇芸命を出迎え、先導を申し出たと伝わる猿田彦大神を祀る。
交通安全、道ひらき、導きの神様。
片埜神社社務所
【狛犬 阿形】
【狛犬 吽形】
【拝殿内】
拝殿の横から撮影。
境外社 瘡神社(くさがみしゃ)
御祭神 火酢芹命
菅原道真が大宰府へ向う途中、当地で道真の馬が病気で倒れた。回復の見込みがないため道真一行は馬を地元の人に託して出発した。馬は介抱の甲斐なく亡くなり、路傍に埋葬された。その場所は、地元の人が馬に供えた草でいっぱいになったことから、いつしか「草神様」と呼ばれるようになった。この「草」が「瘡(くさ)」と同音であることから、後に瘡(皮膚病)に霊験のある神とされるようになり、社名も「瘡神社」となった。現在の祭神は火酢芹命ですが、これは後に定められたものです。
正面から鳥居と拝殿。
【立札】
字が薄くなって読みにくくなっています。
【拝殿】
現在拝殿となっている建物は、以前は「お籠り堂」として使われていたもので、皮膚病平癒の祈願のためのお籠りが行われていたそうです。
【拝殿内】
本殿はなく、拝殿の後にある池を拝む形になります。菅原道真の馬が祀られる以前から池が信仰の対象となっていたようです。
コメント