京田辺市にある本化上行宗の寺院。境内に鬼子母神社が建立されている。
妙覚寺は小高い山の上にあるが、同志社大学田辺キャンパスの中にある為、入りにくい。
また、お寺までの道は少しわかりにくく、 学生の方が歩いていたりするので、大学関係者みたいな顔をして通るといいと思います。
周辺マップと路線経路
田辺天神山遺跡
田辺天神山遺跡(京都府指定史跡)
案内板より
弥生時代後期後半(西暦2世紀頃)の集落跡。木津川流域を一望できる丘陵頂部に営まれた。周囲の平野部からの比較差は約40mの地点に位置する。
1968年同志社大学によって行われた発掘調査では、約20棟の竪穴住居跡が、広場を取り囲むように検出された。住居跡は中央に炉をもち、4~8本の柱により建てられ、平面形は円形あるいは方形であった。遺構の重なり合いを検討すると、円形から方形へと変化したことがわかる。広場には、高床倉庫をはじめとした共同施設が作られていたと推定される。
出土遺物には、土器をはじめ鍬先状鉄器・刀子・鉇・鉄鏃などの鉄器、石斧・石鏃などの石器が出土している。さらに、半球形青銅器が出土しているが、この内面には紐などが通せる形状の装着部があることから装飾品の一部とも考えられる。列島内では類似品の出土は数点にとどまる。
田辺天神山遺跡のように平野から距離を置いた高所に位置する遺跡は高地性集落と呼ばれ、逃げ城・砦のような機能も想定されている。中国の史書『三国志』の
魏志倭人伝に、「倭国乱れ相攻伐すること暦年」と記された動乱を示す遺跡のひとつかもしれない。南山城地域の弥生時代を考える上で貴重な集落遺跡といえよう。2006年に京都府史跡に指定された。
普段は柵があり入ることはできないようです。弥生時代後期の集落跡が残されている。水際での生活から、川に沿って山を開き集落を形成していったといわれ、20軒以上の竪穴住居跡が発見されている。また、住居形態の変化と合わせるように利器の素材も石から金属へと変わっていったことから、弥生時代から古墳時代―大和政権の確立―への社会の変化をうかがい知ることもできる。
鬼子母神社(きしもじんじゃ)
【社殿】
【拝殿】
鬼子母神はもとは子どもを食べる鬼女でしたが、その鬼女を祀ることで、子どもを守ってくれる神様になりました。安産・子育ての守護神また、病気平癒にご利益があると言われています。
妙覚寺
【南妙法蓮華経の石柱】
【本堂】
コメント