由緒によると、岡山城の中堀が埋め立てられた明治14年(1881) に造られたと言われております。
その昔、宇喜多家に仕えた佐久間甚九郎が当地を視察中、多数の暴漢に襲われた際、白狐の声が轟き、暴漢はその場にひれ伏したので甚九郎は九死に一生を得て危地を脱出することが出来ました。
この白狐は当地に在った稲荷神社のご本尊であろうと、上之町々民(現在の天神町南町を含む)は甚九郎稲荷と言うようになり大切にお祀りして来ました。以来上之町に異変がおこるさいは前もって白狐が鳴きこれを町民に知らせると言います。
また、菅原道が祀られていた天神社 (天満宮)は、明治40年頃に旧岡山警察署や旧県会議事堂の建設に伴い、 こちらの甚九郎稲荷神社に合祀されました。
境内には備前焼の狛犬が鎮座します。元々は天神山の上にあった、天神神社の狛犬で、第二次世界大戦の岡山空襲で破損してしまいましたが、甚九郎稲荷との合祀の後、こちらに鎮座しました。
少し離れた北東の位置に岡山神社が鎮座します。
路線経路と周辺マップ
甚九郎稲荷 入口
【注連縄柱】
【甚九郎稲荷神社と天神社 案内看板】
岡山歴史散歩 ー まちの歴史を知る ー
(看板提案 : 天神町南町内会) 岡山市
甚九郎稲荷神社と天神社
甚九郎稲荷神社は、 岡山城の中堀が埋め立てられた明治14年(1881) に造られたと言われており、宇喜多家に仕えた佐久間甚九郎が御祭神として祀られています。
甚九郎が当地で暴漢に襲われた際、 白狐の声が轟き、九死に一生を得たと言い伝えられています。 それ以来、 上之町 (現在の天神町南町を含む) に異変が起こるときは、前もって白狐が鳴いて町民に知らせると言われ、守護神として尊敬を集めています。
また、菅原道が祀られていた天神社 (天
満宮)は、明治40年頃に旧岡山警察署や旧県会議事堂の建設に伴い、 甚九郎稲荷神社に合祀されました。その後、天神社が元あった場所には、昭和40年頃に旧中国四国農政局が建設されました。
【狛犬】
【甚九郎稲荷の由来 案内板】
甚九郎稲荷の由来
天神社、稲荷神社奉賛会
その昔、宇喜多家再興のため岡山に潜入
した佐久間甚九郎が当地を視察中、多数の暴漢に襲われ危機一髪となったさい、天から霊光燦然と輝き白狐の声が轟き、暴漢どもはその場にひれ伏したので甚九郎は九死に一生を得て危地を脱出することが出来た。
この白狐は当地に在った稲荷神社のご本尊であろうと、上之町々民(現在の天神町南町を含む)は甚九郎稲荷と言うようになり大切にお祀りして来た、以来上之町に異変がおこるさいは前もって白狐が鳴きこれを町民に知らせると言う、今も上之町に火災など災難がないのも当社のお陰と町民の深い尊敬を集めており上之町の守護神である。
夏祭り 毎年七月二十四、二十五日
【備前焼唐獅子】
【備前焼唐獅子の由来 解説板】
備前焼唐獅子の由来
平成十七年 六月吉甚九郎稲荷神社
左上の丘に明治二十五年 亜公園の娯楽場が建設されていたがその中に天神神社とこの備前焼唐獅子があった。
明治四十年頃そこに県会議事堂が建設されることとなったので天神神社はこの甚九郎稲荷神社に合祀され、唐獅子はこの境内に移転された。
その後、唐獅子は戦災にも遭い傷みがひどくなったので昭和五十四年九月現在の大理石の唐獅子に替わり役目を終えたが、歴史を偲びここに安置した。
【亜公園集成閣の碑】
【明治初期の岡山警察署基礎】
岡山市北区天神町の後楽館中学・高校跡地にあった岡山警察署の基礎の一部が、甚九郎稲荷の境内に移設されたものとの事です。
旧岡山警察署は1905(明治38)年に建てられました。日本建築に西洋の建築様式を合わせた擬洋風建築で、岡山県の建築技師・江川三郎八が設計したものと考えられています。
昭和20年、岡山空襲で焼失したといわれますが、建物西側の基礎の一部が奇跡的に破壊を免れ、その後も敷地の片隅で残っていました。
基礎はレンガをアーチ状に積んでおり、高さ約75センチ、幅約2メートル。
【参道】
【上之町会館】
参道沿いには上之町会館という年代物の建物があり、会館内でお店を開かれたりする注目のスポットとの事でする。
【手水舎】
甚九郎稲荷 社殿
【鳥居】
【石狐】
【拝殿】
拝殿扁額は「天神社 甚九郎稲荷」とあります。
裏に回るとお社があります。
【本殿】
【甚九郎稲荷神社物語 案内】
天神社甚九郎稲荷神社に語り継がれてきた白狐伝説に基づいた創作劇。
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