堂島川は、大川(旧淀川)から中之島で分かれ中之島の北側が堂島川。南側を流れるのが土佐堀川。
中之島西先端で堂島川と土佐堀川は合流し、安治川になる。
周辺マップ
大江橋(おおえばし)
大江橋は元禄年間、堂島開発に伴って新しく架けられた堂島五橋(大江橋・渡辺橋・ 田蓑橋・堀江橋(現玉江橋)・船津橋)の1つである。現在の大江橋は、大阪市第一次都市計画事業時、御堂筋の整備にあわせて架け替えられた。大江橋及び淀屋橋の設計においては橋梁設計の分野では珍しいデザインの一般公募が行われた。平成20年に淀屋橋とともに国の重要文化財に指定されている。
大江橋から上流へ向け撮影。
大江橋から下流へ向け撮影。
夜の景色も美しい。
大江橋から下流へ向かって歩く🚶🚶♂️🚶♀️
中之島ガーデンブリッジ
【巨大な米のオブジェ】
【堂島米市場の跡】
堂島米市場
—世界における先物取引所の先駆け—
江戸時代、諸藩が年貢として集めた米の多くは、大坂をはじめとする大都市へと運ばれた。諸藩は、中之島周辺の蔵屋敷に納めた年貢米を入札制によって米仲買人に売却し、落札者には米切手という1枚当たり10石の米との交換を約束した証券を発行した。この米切手には、未着米や将来の収穫米も含まれ、これらが盛んに売買されるようになった。
享保15年(1730)、江戸幕府は堂島で行われる正米商い(しょうまいあきない・米切手を売買する現物市場)と帳合米商い(ちょうあいまいあきない・米の代表取引銘柄を帳面上で売買する先物市場)を公認し、堂島米市場と呼ばれる公的市場が成立する。近代取引所に通じる会員制度、清算機能などが整えられた堂島米市場は、わが国における取引所の起源とされるとともに、世界における組織的な先物取引所の先駆けとして広く知られている。
堂島米市場で形成された米価は、飛脚や旗振り通信などによって江戸や地方の主要都市まで伝えられ、各地の米相場の基準となった。
ここで培われた取引制度や慣行の多くは、明治以降の商品・証券・金融先物取引所に受け継がれた。
堂島川の大江橋と渡辺橋の間に架けられている。歩行者専用の橋で、全日空ホテルの前に階段があり、この橋は新しく、構造も橋脚が端に寄せられ、片持ち梁の橋桁でクサビのような形状としている。橋の上の幅員は広めになっており、くつろげる空間が確保されている。
【ブロンズアート『そよかぜ』】
中之島ガーデンブリッジの中央に立つ野外彫刻。
作銘 そよかぜ
作者 松岡 阜(まつおか ゆたか)
平成2年 (1990) 3 月設置建立
四体の人影が躍動している型取り組み合わせしたアート。台座側面にはその方角にある都市が記されている。
夜のそよかぜ。
中之島ガーデンブリッジから上流へ向け撮影。
中之島ガーデンブリッジから下流へ向け撮影。
下流側からの中之島ガーデンブリッジ。
【稲に遊ぶ子供の像】
稲に遊ぶ子供
大阪堂島米市場跡建碑會より
堂島米市場、その繁栄の跡を記念し、昭和30年(1955)に寄贈される。
稲を持つ二人の子供は、堂島と米相場、天地自然の理趣、陰陽の融合、米穀取引上の慣習を表す。
【堂島米市場(浪花十二景ノ内)の様子】
渡辺橋(わたなべばし)
渡辺橋(わたなべばし)は、大阪市北区の堂島川に架かる四つ橋筋の橋。浪速の名橋50選にも選定されている。
渡辺橋・肥後橋は江戸期、明治期を通じて大名蔵屋敷や米市場とともに中之島や堂島地区の繁栄を支えてきた。
石碑より
渡辺橋の名前の由来は、現在の天満・天神橋付近の上町台地北端部あたりの渡辺の津と呼ばれていた地名のようである。
肥後橋は、橋の北詰の中之島に肥後・熊本藩の蔵屋敷があり、明暦三年(一六五七)の「新板大坂之図」には、肥後殿橋と書かれており、古くはこう呼ばれたこともあったらしい。
明治十八年の大洪水によってこれまでの木橋が流され、明治二十一年に両橋ともイギリスから輸入した鉄橋に架け替えられた。
その後、渡辺橋・肥後橋は市電の第二期線建設(明治四十一年)にともなって架け替えられ、明治以降4代目の橋は第一次都市計画事業(昭和初期)によって架 けられた優美なアーチ橋であった。現在の橋は昭和四十一年に高潮対策事業と地下鉄建設に合わせて架け替えられた。
この碑の隣にある親柱は、昭和四十一年に架け替えられた時のものである。
渡辺橋から下流へ向け撮影。
渡辺橋から上流へ向け撮影。
渡辺橋からの景色。
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