堂島川は、大川(旧淀川)から中之島で分かれ中之島の北側が堂島川。南側を流れるのが土佐堀川。
中之島西先端で堂島川と土佐堀川は合流し、安治川になる。
周辺マップ
天神橋(てんじんばし)
天神橋筋(大阪市道天神橋天王寺線)の橋。大阪市北区天神橋1丁目と大阪市中央区北浜東を結ぶ。堂島川と土佐堀川の2つの川を渡る。車道は全線南行き一方通行となる。
【橋名飾板】
【天神橋 橋名飾板の説明】
天神橋 橋名飾板
大阪市
天神橋は明治十八年の淀川大洪水で流失するまで幾度となく架けかえられたが、すべて木橋であった。
この橋名飾板はその後の明治二十一年ドイツから輸入して架けられた鉄橋の橋門上に設置されていたもので我が国でつくられた鋳鉄製品である。
川沿いの様子
下流側から天神橋を撮影。
川沿いを歩く。
堂島川の上を阪神高速が走る。
太平橋跡(たいへいばしあと)
太平橋は、解体撤去されて、今は無い。
この跡地内に保存されている高欄親柱は昭和三年(一九二八年)改築時に築造され、昭和六〇年(一九八五年)に解体されたもの。
難波橋(なにわばし)通称ライオン橋
大阪市中央区北浜と北区西天満を結ぶ、全長189.7m、幅21.8mの橋。
土佐堀川と堂島川の2つの川を渡る。橋の中央で下流側に中之島通を分岐させ、上流側に中之島公園へ降りる階段が設けられている。
橋の南詰めおよび北詰めには、獅子像左右両側にある為、通称『ライオン橋』とも呼ばれている。
下流へ向け歩く。
鉾流橋(ほこながしばし)と大阪天満宮鉾流斎場の鳥居
【鉾流橋】
天神祭の際に行われる鉾流しの神事にちなむ橋名がつけられている。
古い印象を受けるが、初めてこの地に橋が架けられたのは大正7年のこととされている。
天神祭の宵宮に神鉾を川に流す行事「鉾流しの神事」は現在も鉾流橋のたもとで行われている。
昭和55年に中之島地区にマッチしたクラシックなデザインの高欄や照明灯、レンガ敷きの歩道などが整備された。
現在の橋は、昭和4年完成した。高欄、照明灯、親柱など日本調にクラシックなデザインが採用されたのは天神祭の船渡御が行われることを考慮したデザイン。
【大阪天満宮鉾流斎場の鳥居】
天神祭の神事(鉾流し)が行われる場所とのことです。
大きな灯篭
鳥居の裏側から撮影。
【大阪高等裁判所】
【佐賀藩蔵屋敷跡】
大阪高等裁判所の正面左隅に石碑が建立している。
江戸時代、この地には佐賀藩(鍋島藩)蔵屋敷があった。発掘調査によって、堂島川から船を引き込む船入の水門や、石垣が発見された。
石碑より
【船入橋碑】
江戸時代、各藩は米や特産物を換金するため主に中之島を中心とした場所に蔵屋敷をもっていた。川沿いの蔵屋敷に直接船で多量の物産を搬入するため屋敷内には御船入という入堀を設けていた。そのため、川沿いの道路は入堀への水路をまたぐために橋が必要であり、この橋を船入橋と総称した。
大阪市
橋長は4間から8間半(約7.2メートルから15.3メートル)幅員2間(約3.6メートル)程度で積荷を高く盛った船が通航しやすいように反りの大きな橋であった。
蔵屋敷は明治維新後全て姿を消したが、一部の船入橋は所有各藩の名をとめ、高松橋、徳島橋、熊本橋などとして残っていた。
平成2年、この地に入堀跡が確認されて、現裁判所の地が鍋島藩蔵屋敷跡であることが裏付けられた。またこの船入橋は近松門左衛門の「心中天の網島」の中で、冥土へ旅立つ男女の姿を見送る「名残の橋」としても読み込まれている。
水晶橋(すいしょうばし)
水晶橋から上流へ向け撮影。
水晶橋から下流へ向け撮影。
水晶橋は、正確に言えば橋ではなかった。この橋は本来は昭和4年に完成した堂島川可動堰という、河川浄化を目的として建設されたゲートである。橋面の改装が行われたとき、さらに多くの人に利用してもらうことを願って、法律上も橋と認定する手続きがとられたので、現在は名実ともに橋になっている。 水晶橋という名の由来は今一つはっきりしないが、橋上にある照明灯が水面に映る様子が水晶のかがやきに似ているということから出た愛称であるとする説もあり、水都大阪が繁昌するようにという意味で水昌橋であるという説もあって決め難い。 水晶橋は、その姿形のゆえに大阪の人々に愛されている。プロ、アマを問わず、画題として選ぶ人が多いのはその証拠である。水晶橋の美しさの要因を考えてみると、第一には本体のアーチとその上の九つの小アーチの組合わせの妙が挙げられる。重厚さの中にどこか軽やかさを感じさせる。昭和57年の改装工事でベンチ代わりの植枡も置かれている。また、ライトアップがなされ、中之島の夜景に彩りを添えている。
大阪市ホームページより
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