氣比神宮は、北陸道総鎮守、越前國一之宮のお宮さんです。1300年以上の歴史を持ち、『古事記』や『日本書紀』にも登場するほど、日本の古代史と深い結びつきがあります。市民生活にも深く根ざし、地元民は親しみを込めて「けひさん」と呼んでいます。 年間約70万人が参拝する、敦賀を代表する観光スポットです。
神宮とは天皇や皇室関係者を祀った格式高い神社です。主祭神である伊奢沙別命は食べ物を司る神様で、「御食津大神」とも呼ばれています。海上交通や農漁業などとも関わりが深く、生活全般、つまりは衣食住にご利益のある神様として古くから信仰をあつめています。氣比神宮では、主祭神の他、皇室にゆかりある6柱の神々を併せ、7柱の神々をお祀りしています。
路線経路と周辺マップ
氣比神宮 入口
国道8号線と神楽通りの気比神宮交差点の前に大きな鳥居が見えます。
【鳥居前】
【おくのほそ道の風景地 案内板】
[国指定名勝]おくのほそ道の風景地 けいの明神(氣比神宮境内)
指定年月日 平成二十八年十月三日
所在地及び管理者 敦賀市曙町 氣比神宮
「おくのほそ道の風景地」は、紀行文『おくのほそ道』の風致景観を指定文化財である。松尾芭蕉と曾良が俳句を残した名所及び由緒・来歴の地の多くは、『おくのほそ道』という作品を通じて近世以降現代に至るまで広く鑑賞の対象として知られるようになり、後世の人々の風景観に影響を与えてきた。往時を偲ぶよすがとなる風景を今に伝えるそれらの地は、変わらずに残されてきたものと移ろいゆくものとを同時に捉えようとした芭蕉の「不易流行」の精神を表す風致景観である。
元禄二年(一六八九)の三月末、芭蕉と曾良は『おくのほそ道』の旅に出た。
七月に加賀を経て福井に入った芭蕉は、「名月はつるがのみなと」で観賞したいと、敦賀を目指した。仲秋の名月前日の八月十四日に敦賀に到着した芭蕉は、その夜「けいの明神」に参拝した。氣比神宮には、鎌倉時代末期に遊行二世他阿上人が自ら砂を運んで参道を整備したという「お砂持ち」の逸話が伝わっている。芭蕉はこの「お砂持ち」の神事と月夜を「月清し遊行のもて砂の上」と詠んだ。翌日は雨で、楽しみにしていた敦賀での名月を見ることがかなわなかった芭蕉は、その心持ちを「名月や北国日和定めなき」の句に残した。
境内は、第二次世界大戦時の空襲で多くの建物が焼失したものの、重要文化財の大鳥居は芭蕉来訪時の姿のまま残り、従来の地割等は踏襲され、往時の様相を今に伝えている。
令和四年三月一日 敦賀市教育委員会
【社号標】
【狛犬】
【氣比神宮 由緒書き】
北陸道镇守
越前國一之客
氣比神宮
祭神七座
伊奢沙別命(氣比大神)・帯仲津彦命(仲哀天皇)・息長帯姫命(神功皇后)・日本武命・誉田別命(應神天皇)・玉姫命・武内宿禰命
俗革
主祭神氣比大神は神代から此の地に鎮り給うた大宝二年(702)勅に依り社殿の修営を行い仲哀天皇神功皇后を合祀した。日本武命をはじめ四柱神を別殿(四社の宮)に奉斎した。延喜式に「祭神七座並名神大社」とあり類聚三代格には「神階正一位勲一等」と記されており此の七柱の神は一座ごとに官幣(大社)の奉幣にあずかっている。歴代の皇室をはじめ衆庶の尊崇きわめて篤き所以である。明治二十八年官幣大社に昇格し神宮号宣下の御沙汰を賜って氣比神宮と称した。之単に北門の鎮護たるのみならず日本有数の古名大社として通称「氣比さん」の名で親しまれ全国に幅広い信御を集め九月二日より十五日におよぶ例祭は「氣比の長まつり」としてその名を留めている。上古より歴朝の奉幣は実に枚挙に遑なく行幸啓も極めて多く戦後では昭和四十三年畏くも天皇皇后両陛下御親拝・昭和六十二年五月昭和の大造営に依る本殿遷座祭・平成十四年御祭神壱千百年式年大祭にあたり、弊帛料の御奉納を賜り厳粛なる奉幣祭が営まれた。戦後の都市計画で境内は大幅に削減されたが、由緒ある摂末社十五の中、当地敦賀の地名の発祥である武内摂社角鹿神社がある。
氣比神宮大鳥居(重要文化財)
入口にそびえる朱色の大鳥居は、まさにシンボルたる堂々とした佇まい。
鳥居の前には橋がかかる。
高さ三六尺(10.9m)柱間二四尺(7.27m)、本朱漆塗の木造両部型鳥居で春日大社(奈良県)、厳島神社(広島県)とともに三大木造鳥居として知られています。主柱の上に台輪という円形の台があり、黒漆で塗られています。また、鳥居を挟んで前後に二本、稚児柱という支柱があり、その柱の上には薄緑色の笏谷石が載せられています。
旧神領であった佐渡国の鳥居ケ原から伐採され奉納された榁木
を用いており、正保二年(1645)に現在の場所に建てられました。明治三十四年(1901)に旧国宝となり、現在は国の重要文化財に指定されています。
正面の「氣比神宮」と書かれた扁額は、有栖川宮威仁親王の御染筆です。
この扁額は、北前船で財を成し、のちには敦賀―ウラジオストック航路を運航した大家七平が奉納したものであることから、日本遺産「北前船ー北前船寄港地・船主集落―」 の構成文化財として登録されています。
昭和二〇年(1945)の敦賀空襲では、 当神宮も旧国宝本殿をはじめとする境内の主要建物が惜しくも焼失しましたが、大鳥居は角鹿神社とともにその戦火を免れました。江戸時代より約三十年に一度、朱漆の塗り替えと補修を行っており、近年では平成二十九年(2017)に実施しました。
【大鳥居の解説板】
末社 猿田彦神社
入口すぐに猿田彦神社が鎮座します。
仕事や学業を良い方へ導いてくれる「みちひらき」の神様。
【狛犬】
【狛犬】
【拝殿】
【社務所】
【長命水】
長寿の神様が宿る湧水は、人気のパワースポットです。大宝二年(702)の神宮造営中に湧き出た1300年以上の歴史を有す名水として知られています。参道を進んだ左手、手水舎の隣に湧出しており、亀の口からこの水を汲む事ができます。
明治四十二年(1909)、東宮殿下(大正天皇) 御参拝のお茶の水として用いられた歴史を持ち、現在でも、縁起の生命の水として地元氏子より重宝されています。
【手水舎】
手水舎が立入禁止のため臨時の手水がこちら。
【旗掲松】
旗揭松は南北朝争乱時代の延元元年(1336)、当神宮宮司であった氣比氏治が後醍醐
天皇を奉じ、氣比大明神の神旗を掲げて勝利を祈願したという「旗掲松」です。神官達は金ヶ崎城に立てこもり足利軍に対し奮戦したものの、一門ことごとく討ち死にする結果となりました。
この松は永い年月の間に枯死してしまいましたが、和の御大典記念事業にて保存処理を施し、今は覆屋の中で管理されています。隣の松は、その種子から育った後継樹です。
【旗掲松 旧松根】
【旗掲松 解説板】
旗掲松(はたかけのまつ)
延元元年(一三三六) 南北朝争乱時代、北朝方の足利軍侵攻に対し、南朝方の後醍醐天皇を奉じた当神宮大宮司氣比氏治(けひうじはる) 朝臣が、 社家社僧始め勤王の軍を募り『氣比大明神』の神旗を掲げ戦勝を祈願したと伝わる歴史の松。
当時の松は落雷により枯死し、残された根幹は長年の風雪に耐えながらも朽ちていった。令和の御大典記念事業におて、歴史を語る旧松根に保存加工を施し、その姿を後世に遺し留めることとした。往時の氏治の尊皇の意を永く伝え顕彰致すものである。
なお、現在の松は初代の実より発芽した後継樹であり、松葉青々と樹勢強く成長している。
松尾芭蕉の像と碑
松尾芭蕉と氣比神宮にのぼる月
江戸時代の俳人・松尾芭蕉は、「おくのほそ道」の旅で敦賀を訪れ、氣比神宮を参拝しました。このことから、境内中鳥居正面には、芭蕉像と句碑が立っています。
「おくのほそ道」内に掲載される敦賀で詠まれた句は5句ありますが、そのうち2句が氣比神宮で詠まれたものです。平成28年には境内全体が「おくのほそ道の風景地」に指定。 さらに令和3年には、 芭蕉が句を詠んだ氣比神宮から見える月が、「氣比神宮にのぼる月」 として福井県内で初の日本百名月に登録されました。
【松尾芭蕉の像】
【句碑】
【氣比神宮にのぼる月 案内板】
氣比の月と松尾芭蕉
俳人松尾芭蕉は、「おくのほそ道」の旅において月を詠むことが目的の一つであり、枕置きの地敦賀での中秋の名月を心待ちにしていた。元禄二年(一六八九) 八月十四日夕刻敦賀入りし、旅籠出雲屋の主人に「明日も晴れるだろうか」と尋ねた。主人は「北陸の天気は変わりやすく、明日は分からない。今夜のうちに参詣してはどうか」と答えたので、夜参し月見を堪能した。
案の定、翌日は雨であった。
芭蕉は中秋の名月の前日八月十四日に当神宮を参詣しその月夜の一夜に十五句を詠んだと伝わる。
「芭蕉翁月夜十五句」の内の五句がこの自然石の句碑に刻まれる。
國々の八景更に氣比の月
月清し 遊行の持てる 砂の上
ふるき名の角鹿や恋し 秋の
月いづく鐘は沈める 海の底
名月や 北國日和 定なき
芭蕉と縁深い当神宮は、平成二十八年十月に境内全域が名勝「おくのほそ道の風景地 けいの明神」に指定され、更に令和三年十月には日本百名月「氣比神宮にのぼる月」に認定登録されている。芭蕉も眺めたであろう美しい月夜は、時代を超えた今もなお我々を魅了している。
【ユーカリの木】
昭和11年に陸軍関係者が武運を祈って献上した木で、市の天然記念物に指定されています。
【天然記念物 ユーカリ 解説板】
氣比神宮 社殿
【中鳥居】
【社殿】
【拝殿】
【絵馬掛け】
九社之宮と神明両宮
拝殿の左側に九社之宮の入口があります。九社之宮は伊奢沙別命と縁のある神々をお祭りする九つのお社の総称です。
【伊佐々別神社】
摂社。祭神は御食津大神荒魂神。漁労を守る神であり北方の海に面す。応神天皇皇太子の時当宮に参拝せられ、夢に大神が現れ御名を易える事を約し、その威徳により翌朝笥飯の浦一面余る程の御食の魚を賜わった。 天皇嬉び御神威を畏み、氣比大神の荒魂を勧請崇祀された社である。
【擬領神社】
末社。社記に武功狭日命(たけいさひのみこと)と伝えられ、一説に大美屋都古神又は玉佐々良彦命とも云う。旧事記には「蓋し当国国造の祖なるべし」とある。
【天伊弉奈彦神社】
摂社 (式内社)。祭神は天伊弉奈彦大神。 続日本後記に、 承和七年(840) 八月、越前國従二位勲一等氣比大神御子無位天利劔神、天比女若御子神、天伊弉奈彦神、並従五位下を奉授せらるとある。
【天伊弉奈姫神社】
摂社 (式内社)。祭神は天比女若御子大神。社家伝記に、伊佐奈日女神社、伊佐奈日子神社は造化陰陽の二神を祀りしものなりと云う。古来より縁結びの御神徳が顕著である。
【天利劔神社】
摂社 (式内社)。祭神は天利劔大神。仲哀天皇当宮に参拝、宝劔を奉納せられ霊験いと奇しと云われる。後に祠を建て天利劔宮と称え信仰される。
【鏡神社】
末社。神功皇后角鹿に行啓の際、種々の神宝を当宮に捧げ奉った。其の中の宝鏡が霊異を現わしたので別殿に國常立尊と共に崇め天鏡宮と称え奉ったと云う。慈悲之大神として知られる。
【林神社】
末社。林山姫神を祀る。福徳円満の大神。延喜式所載の越中國砺波郡林神社は当社と御同体である。
延暦四年(785)、僧最澄氣比の宮に詣で求法を祈り、同七年再び下向して林神社の霊鏡を請い比叡山日枝神社に遷し奉った。当社が江州比叡山氣比明神の本社である。
【金神社】
末社。素盞鳴尊を祀り、家内安全の神とされる。 延暦二十三年(804) 八月二十八日、僧空海当宮に詣で、大般若経一千巻を轉読求法にて渡唐を祈る。弘仁七年(816)に再び詣でて当神社の霊鏡を高野山に遷し鎮守の杜とした。即ち紀州高野山の氣比明神はこれである。
【劔神社】
末社。祭神は姫大神尊。剛毅果断の神として往古神明の奇瑞があり、莇生野村(旧敦賀郡)へ請奉ったと伝えられる。
【神明両宮】
末社。祭神天照皇大神 (内宮)、豊受大神 (外宮)。外宮は慶長十七年(1612)三月二十八日、内宮は元和元年(1615) 九月二十八日、伊勢の神宮よりご分霊をお招きし、お祀りされています。
【外宮】
【内宮】
【四社之宮】
塀の向こうに本殿と四社之宮が見えます。当初、氣比神宮は土公の地で祭神を祀っていましたが、仏教伝来による寺院建築の影響もあり、社殿が整備されたのは飛鳥時代、文武天皇の大宝二年(702)勅して(御言宣)当宮を修営し、仲哀天皇、神功皇后を合祀されて本宮となし、後に日本武尊を東殿宮、応神天皇を総社宮、玉姫命を平殿宮、武内宿禰命を西殿宮に奉斎して「四社之宮」と称したとされます。
【回廊】
【休憩所(売店)】
売店の奥が神水苑の入口になっています。
【神水苑 入口】
神水苑、本殿創建時に湧き出た歴史あるお水。ここで汲み取りができます。
ペットボトルは売店で300円で購入。
角鹿神社 兒宮 大神下前神社
【摂社 角鹿神社】
【社号標】
【狛犬】
【拝殿】
日本書記に「御間城天皇(第十代崇神天皇)の世に、額に角ある人、一の船に乗りて、越国の笥飯浦に泊れり。故れ其所を號けて角鹿と日ふ」とあり、続けて、この角のある人が「意富加羅国王の子で、名を都怒我阿羅斯等という」と名乗ります。この後、都で崇神天皇に謁見し貢物を奉って天皇に仕えました。
社伝では、この都怒我阿羅斯等が、昔の敦賀である角鹿国を治めるよう、天皇より任命されたこと、その後、都怒我阿羅斯等が政治を執った角鹿国の役所の跡に神社を作ったことが伝わっています。この神社の名前が角鹿神社であり、役所を政所と呼ぶことから、別名、政所神とも呼ばれました。現在の敦賀のもとの地名は「角鹿」でこの御名にちなみ、往古は東門口が表参道であったため氣比神宮本社の門神であったとの事です。
延長五年(927)にまとめられた「延喜式」に「角鹿神社」が掲載されていることから、この時には社殿が建てられていたことが分かります。
角鹿神社には、角を持つ獅子頭が奉安されており、疫病が流行した際には、この獅子頭が疫病退散の御利益があるとして、市内に出御して練り歩きました。また病よけのお守りとして、この獅子頭の絵を紙に刷ったものが、今に伝わっています。これにちなみ、新型コロナウイルスが流行した令和三年(2021)にも角鹿神社から出御して、参拝者に姿を現わしました。
【末社 兒宮】
【社号標】
【狛犬】
【社殿】
【狛犬】
祭神は伊弉冊尊。元は氣比神宮寺の境内に鎮座。
平安朝時代、寛和二年 (986) 九月二十日遷宮の事が残されており由緒は古く、子宝及び安産の神と称され、小児の守神とされます。
【末社 大神下前神社】
【狛犬】
末社(式内社)。御祭神は大己貴命。敦賀市内氣比大神四守護神の一社で元は北東の天筒山麓に境外末社として鎮座されていたのを明治四十四年現在の地に遷座、稲荷神社、金刀比羅神社が合祀されました。
土公(どこう)さん
氣比神宮境内の北東部に位置する塚で、天筒山に降臨された大神が最初に遷座された場所であることから、神宮の鎮座に関係する聖地として、古来「触るべからず、畏み尊ぶべし」と氣比神宮社家文書に伝えられています。
大宝二年(702)に神宮の社殿が造営された後も、土公は聖地として残されました。延暦二十三年(804)に伝教大師(最澄)、弘法大師(空海)が遣唐使船で唐に渡海するにあたって、土公に祭壇を設け七日七夜の大業を修した所とも伝えられます。
「土公」の名の由来ははっきりしませんが、陰陽道には土公神というものがあります。これは土の中に神がいて、春は竈に夏は門に秋は井戸に冬は庭に動くものとされ、神がいる期間はその場所の修繕など、手を加えてはいけないといわれています。氣比神宮においては、家の新築などの時に「土公の土砂をその地に撒けば悪しき神の祟りなし」とされて、深く信仰されていました。
【狛犬】
【拝殿】
神様が降り立った聖地「土公」
神宮の北東部と隣接する旧北小学校のグラウンドには、「土公」と呼ばれる聖地があります。ここは、主祭神・伊奢沙別命が降り立った場所と伝えられ、2000年以上前から信仰の
依代とされてきたパワースポットです。平安時代には最澄と空海が訪れ、航海の安全祈る大業を行ったとされています。
土公は神聖な場所と崇められ、立ち入ることを固く禁じられてきました。今でも姿変わらず大切に保護されています。
【解説板】
絵馬堂と亀の池
【絵馬堂】
【亀の池】
日本庭園歴覧に掲載された名池。
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